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「あいまい」なものを「あいまい」なままに
 
伊勢
 サッカーは昔はポジションが決まっていましたが、今は選手の役割の幅を広げ、極めて「あいまい」になっています。私の好きな中田英寿は真ん中辺りにいますが、攻めもするし守りもする、ゲームメーカーなみたいなことでパスも送ります。昔はパスを送る人、打つ人、守る人という決まりがあったのが、今は崩れて、そのぶん選手は大変ですが、サッカーがとてもおもしろくなってきました。他の仕事でも役割が決められることで安心していたようなことが崩れてきていると思います。
 共通しているのは、「自分はこの仕事をやっていればいい」というのではないところで、幅を必要とするところです。自分の仕事の幅や、人との関係性の幅としての「あいまいさ」を楽しめることが、力になっていく気がしています。
鷲田
 さきほど、「わからないことをわからないまま正確に」と言いましたが、芸術と政治とケアは、全く異なる領域で、タイプが違うように見えますが、実は「あいまい」というところから考えると似た思考方法だと思います。わからないもの、すっきりいかないものに対して、わからないまま、すっきりいかないままビシッと判断を下すのが仕事であるという点です。
 政治というのは本当に不確定要素ばかりでしょう。何がどういう順番でくるかによって、同じことでも全然違う意味になります。とくに外交などは相手のあることなので不確定要素だらけで、次の瞬間どうなるのかさえわかりません。でもわからないなかで、それでもなお決断、方向づけをしないといけないのが政治家の仕事です。
 ケアは看護婦さんが典型だと思いますが、患者さんの気持ちをものすごく察することができる、患者さんと対立している家族の思いもわかる、でもそのふたつと全然合わない医師の立場もわかる。そういうお互いが対立しあって、まるく納めようがない対立する意見とか矛盾する思いのなかで、それでもなお「この患者にとって、いちばんいいのはどういうことなんだろう」と判断する、非常にしんどい仕事です。そういう意味で、わからないものや「あいまい」なものを、「あいまい」なままに、それでもしかるべく正確に判断するという点で、政治の思考、芸術の営みと、ケアはとても似ているのではないかと思います。
 伊勢さんはスポーツを言われましたが、私はここで哲学を入れたいと思います。哲学は正直言って答えのないものばかりです。「自己とは何か」という問いについては、昔から考えられていますが未だに答えが出ていません。心と体の関係、魂と肉体の関係なども大きな問題ですが、今でも3つか4つの考えが対立したままです。
 また、哲学者の得意な言葉である「存在の意味」は、要するに「ここにいることに何の意味があるのか」とか「生きていることは本当に死ぬことより意義があるのか」ということです。このような問いのほとんどは、私たちが生きている上では普段あまり意識しませんが、あるときふっと出てくる問いと一緒です。
 たとえば、病気を宣告されてあと余命何ヵ月というときに「それでも生きている意味があるのだろうか」「皆に迷惑をかけるし、自分も痛いし、死ぬ方がいいのではないか」と悩み、「本当に生きていることは死ぬことよりいいのか」と考えます。
 「なぜあの人でなくて私が病気になるのか、私ばかりが苦しまなければならないのか」─病気であったり苦しんでいることは事実ですが、これには絶対に答えはない。少なくとも人間はそれに答えを与えることはできません。それでもなお、それを問わないで生きてはいけないのが人間です。
伊勢
 「あいまい」なものを「あいまい」なまま正確に、ということは、なかなか、できそうでできないことですね。
迷惑をかけられるような関係
 
鷲田
 もうひとつ気になるのは、相性ということです。私たち教師は学生を相性で選んではいけない。平等にそれぞれの学生のニーズに合わせていろいろな話をし指導する。でもどこか合わない学生がいます。看護婦さんは「絶対そんなことを思ってはいけない」と教育され心根を鍛えられます。しかし教師以上に実際の体の接触、つまり家族のような身体接触というものをするなかで、感情も巻き込まざるを得なくなり、ついには相性が合わないことで苦しまざるを得ないことがあります。
 そのときに、その相性のなかに入り込んだままであれば、「イヤだな」「そんなこと思ってはいけない」という葛藤がずっと続きます。プロの看護婦さんとは、そういうときに「それは相性よくないのよ」「チェンジしましょう」という見極めがつけられる人のことかなと考えています。もちろん簡単に「チェンジしましょう」と言うのではなく、チェンジしたら患者さんにどういう傷が残るかということなどを全部含めたうえで、「これはやはり相性が悪い」ということで、ピシッといいタイミングで横から助言できる人、あるいは自分で判断して「代わってほしい」と言うことができる人ではないかと思っています。
 なぜ相性が悪いかわからない、でも相性というものは不思議だけれど確実にある、そんなことを感じるときはありませんか。
伊勢
 撮影のときにカメラマンやライトマン、自分、いろんな関係のなかで、この人とこの人の相性がよくなかったと思うことはあります。よほどの時は、代わったほうがいいかなと思うこともありますが、そういうことを利用しながら創っていくという面はあります。それができるのは、看護のように生命を預かるというギリギリの関係と少し違うからかもしれません。
 よく「伊勢さんはいい暖かい関係の映画を創りますね」と言われますが、それはたまたま「奈緒ちゃん」などの映画の登場人物のなかで、実際にあった暖かい関係が映ったということになると思います。しかし、もしも自分がちょっと距離を感じてしまう人や物を撮る場合は、逆に、距離を感じてしまうようにちゃんと映るかどうかが私にとっては重要です。
 それをいつも距離がないような素振りで撮影していると、自分も痛んでくるし、他の人も痛めるということがあるのではないでしょうか。私にとって実際の周囲との関係が一様でないように、撮影しようする被写体との関係は一様でないはずです。それを、こうでありたいと思い込み、固定した姿勢で関わると、そこでかなり無理が出てくるように思います。
 ケアする現場の人たちにとっても、患者さんやいろいろな人たちとの関係は、同じような面があるのではないでしょうか。「わかりたい、近づきたい」と思っている気持ちは当然ありますが、近づきたいと思っていてもいつも近づけるとは限りません。そのときに、そういう距離や関係みたいなことも、あるがまま、きちんと受けとめていきたいと思っています。
鷲田
 相性が悪い場合、患者さんに相性が悪いとは口が裂けても言えません。しかし、「別の看護婦さんにしましょうか」とさりげなく言われたときに、患者さんは、相性が悪いというふうに自分と看護婦さんの関係を外から見られるようになって、患者さんの方が逆に「でもしばらく、あの方についてもらいます」と言われることがあります。近づきたいけれど近づけないということや、相性が悪いということを知ることで、そこから新たな関わりが生まれなおすということもあると思います。
 
伊勢
 この2時間とりとめもない話ですみません、というのはおかしいでしょうか。
鷲田
 そういうときこそ「迷惑かけてありがとう」ですね。これは、たこ八郎さんのお地蔵さんに刻まれている言葉ですが、自分は厄介者で皆に迷惑をかけるわ、借金は踏み倒すわ、それで勝手にあの世に行くわで、無茶苦茶なことをしてきて、そうであれば死ぬときには「迷惑かけてごめんなさい」と言うのが普通ですよ。それが「ありがとう」なんです。自分が迷惑をかけた、それなのにイヤな奴だな、厄介者だな、と思いながらも自分のもとから誰も去らなかった、迷惑をかけられつづけてくれた。つまり迷惑をかけられるような関係を最後までもちつづけてくれたことに「ありがとう」だと思います。これもなかなかおもしろい話ですね。
 
鷲田 清一 (大阪大学大学院文学研究科教授)
 京都大学文学部卒。関西大学文学部教授を経て現職。専攻は哲学、倫理学。著書「「聴く」ことの力─臨床哲学試論」(1999年,TBSブリタニカ)、「〈弱さ〉のちから─ホスピタブルな光景」(2001年,講談社)、「死なないでいる理由」(2002年,小学館)ほか。
 
伊勢 真一 (ドキュメンタリー演出家)
 立教大学法学部卒。テレビから映画までヒューマンドキュメンタリーを中心に作品を発表。作品「をどらばをどれ」(1994年)、「奈緒ちゃん」(1995年)、「ルーペ」(1996年)、「見えない学校」(1998年)、「えんとこ」(1999年)、「ぴぐれっと」(2002年)ほか。








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