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「わかってほしい」「わかられてたまるか」
 
伊勢
 鷲田さんの「「聴く」ことの力」はすごくおもしろかった。私も仕事でインタビューをしますが、とても苦手です。そばに行って、聞かなければいけないことを考えれば考えるほど緊張して、答えを導き出すための問いが発せられなくなったり、見当はずれなことを言ったり、あまりにもストレートになったりするのです。実は「「聴く」ことの力」は哲学とはあまり関係なく「俺が悩んでいることを少し解決してくれるのかな」と思って読みました。
 ドキュメンタリーで人の話を聞くときには、こちらがドキドキしてしまうと、勘のいい人は自分で話しはじめてくれるのですが、そうでもない人は困った顔をします。仕方がないので、漠然と「どうですか」と聞いてしまうことがあります。でも、「どうですか」と聞くと10人のうち8人ぐらいは、「眠い」とか「痛い」とか「おもしろかった」とか、何か話しはじめてくれます。テクニックとして意識して使っているつもりはありませんが、こうした答えをもらうと「何か質問して答えてもらわなければいけないと、私自身が思い込んでいたのではないか」と思うことがあります。
 「「聴く」ことの力」に象徴的なことが書いてありました。宇野千代さんの人生相談の話です。
鷲田
 80年代、宇野千代さんが毎日新聞で1年間ほど、読者の人生相談を受けていました。字数が多く、1面の4分の1くらい使っていました。特徴は回答欄の3分の2ぐらいが反復だったことです。「あなたはこうこうだ、と言うのですね」「そうして、こうして、こうしていたのに、こうなってしまった、と言うのですね」─最初は、大作家は書くことがないと、このようにして字を埋めるのかと思ってムッとしました。でもあるとき、彼女は一語たりとも省略しないということに気がつきました。
 相談をもちかけた人の言っていることを全部確認してあげて、アドバイスは非常にシンプルに質問者の悩みの核心に触れることだけを示します。たとえば、ある人には「あなたの要求は高すぎるからワンランク落とす、それだけでいいんだ」ということを手を変え品を変え書かれています。そして最後は「これはあなただけの問題でなく、実は私がずっと抱え込んでいる問題です。だからこれからも一緒に考えましょう」というふうに終わります。
 これは、一般の読者は「何だ」と思うかもしれませんが、少なくとも相談をもちかけた方にとっては宝物の答えなのです。自分の言葉を、どんなささいな言葉もひとつも聞きのがさない、全部受けとめてくれて、自分がいちばん気づいていない大事なことをちゃんと言ってもらった。そして私は一人で放っておかれない、突き放さないで手を差しのべてもらっていると感じることができる。とても役に立つ人生相談だと思いますね。
 とくに、ケアの場面などで聴くということは、何らかの形で苦しいことを聴くわけです。あるいは苦しい状態のなかにある人の話を聴くわけです。そういう話を聴くということは、不可能とまでは言わないけれども、非常に難しいと言えます。
 なぜなら、本当に自分のなかでいちばん大事な事とか、苦しい事はなかなか人に言えないからです。聴いてほしい、わかってほしいという気持ちはどこかにありますが、「絶対こんなことはわかるはずがない」「わかられてたまるか」という気持ちもあるし、何よりも、忘れたい事、できるだけ考えないでおきたい事を、わざわざ反芻してもう一度語ることは、とてもエネルギーが要ることです。
伊勢
 それが多分、ドキドキしたり緊張感があったり、できればインタビューしたくないなどと思う大きな原因でしょうね。
鷲田
 でも、そういうものを抱え込んでいると、「わかられてたまるか」という気持ちと同時に、本当はどこかに「自分の言葉を受けとめてほしい」という気持ちもあるわけです。
「聴くこと」と「待つこと」
 
鷲田
 私が「「聴く」ことの力」のなかで書こうとしたのは、なぜ「聴かれる」ことに意味があるのかということです。本当は語りたくない、忘れたいのに、でも話したい、話してみるかという気になるとき、その人はすでに、自分の苦しみに対してこれまでと違った関わり方をしようという気持ちが少し芽生えています。自分で自分のことを語るということは、第三者のように自分を観察するような視線をもたざるを得ないわけです。つまり、どう捉えたらいいか、どんなふうに語るとわかってもらえるかを考えるわけです。
 そうすると、苦しみのなかにどっぷり浸かっていた人が、非常にしんどいことですが、そこからいったん出て、その苦しみの全体を距離を置いて見てみようとしたり、あるいは、その苦しみからなかなか身を離さないけれど、今までとは違う関わり方をしようとします。
 聴くというのは、まさにそのことをケアすること、つまり、違う関わり方をするというしんどいプロセスを支えることです。そのときに、いちばん大切なことは「待つこと」だと思います。
 たとえば、自分でもよくわからないことを、何とか言葉にしようとして、言葉が少しポロッと出ても「こんなのでは言い切れていないなぁ」と思ったり「通じるのかな」と思ってしまって、なかなか言葉が流れるように出てこないことがあります。聴く方は、沈黙の時間が続くととてもつらくなり、やがて待ちきれなくなって、「それはこういうことだ」とか「あっ、私もそんなことがありました」と言って、先に言葉を取りにいってしまいます。取りにいく方は解釈するわけだから、しっかりとストーリーになっていることが多く、話す方は「ちょっと違うかもしれないな」と思いながらも、「あっそうそう、そういうことが言いたかったんです」と、それに乗っかってしまいます。結局、その人は喉まで出てこぼれかけた自分の言葉を飲み込んでしまうことになるのです。
 そうすると、せっかくその人が、これまでと違ったふうに自分の苦しみに関わろうとして開いた距離を、またふっと閉じてしまうことになります。聴くということは言葉を迎えにいかないで「ぐっと待つ」ことが、しんどいことですが、とても大切なことだと思います。
伊勢
 NHKのテレビの仕事で、沖縄の小さな島で一本釣りをしている漁師の撮影をしたことがあります。漁師は「月に一匹釣れればいいほうだ」と言っていたので、撮っているうちに釣れるだろうと思って追いかけましたが、やはり釣れませんでした。私はそばにいたので「釣れなかったね」と言いました。漁師の心の中では「そんなことはわかっている、バカヤロー」とか「あしたはどうしよう」とか、いろんな気持ちが交錯していたのでしょう。タバコを吸ってずーっと海を見て、2、3分経ったらそのまま上がって行きました。上がって行くところを追いかけ、カットしてからカメラマンと「ああ、いいインタビューが撮れたな」と話しました。
 要するに何も答えないが、自分たちとしては見ていてよくわかった。言葉には何もしていないけれど彼がどう思っているのか、言葉にする数倍もよくわかるインタビューが撮れました。
鷲田
 「わからないものをわからないまま正確に見えるようにする」、それでOKだと思います。
何もしないでただそばにいる
 
鷲田
 ケアの問題を考えるときのひとつの核になることは、積極的なことを何もしないで「ただそばにいる」ということが、どのような力になるのかということです。
 たとえば、看護の現場を考えるときに、ふたつのことを一度はずした方がいいと考えています。
 まず、何かをしなければならないという意識をはずす。もうひとつは何かをしてあげるという意識をはずす。はずしたら何もしないことになりますが、聴くということは、ある意味では何もしないことで、受け身ということです。
 まず一度「何かをする」ということをはずしたケアをイメージしてみる。なぜなら、「こうしないといけない」とか「何と何をしたらよいのか」だけを考えていると、ただ聴いているだけとか、ただそばにいるだけということが、とてもネガティブなものになってしまうからです。
 もうひとつは「してあげる」ということを一度やめてみて、「してあげる」ではなくて「する」と考えます。「する」なかで逆にする方が「してもらう」ということが起きる場面があるはずです。たとえば、伊勢さんの話にあったように、映画を撮らせてもらいに行ったら、撮っている間にこちらが会いに行きたくなったという反転が起きる。そういう反転が、ケアとは「してあげることだ」といつも考えているとなかなか見分けにくくなるように思います。
 それに、「何かをしてあげなければならない」とか「してあげる」ということでケアしている場合でも、うまくいかないことはありますよね。この人には10時間ぐらいそばについていてあげたいと思っても、病院では5分もそばにいることはできません。看護している人たちは「本当はもっとしてあげたいのに十分にできなかった」という後悔や、自分への責めみたいなものを感じていますが、「何かをする」「してあげる」ということをはずすことは、そういう責めをもたないでいいですよというメッセージにもなると思います。
 そのように考えるようになったきっかけがあります。10年近く前に入院したとき、4入部屋で向かいのベッドに80代のおじいさんがいました。明らかに社会的入院で、ほとんど一日中寝ていて、たまに目を開けても意識はほとんどない様子です。そこへ毎日のように横着な看護婦さんが来るのです。その看護婦さんは昼ごはんが終わったあと、みんなが眠くなったころに来ます。そして、そのおじいさんの容態を見るときにカーテンを半分閉めて、おじいさんの上にガバッと伏して眠る。そのために来るのです。おじいさんは意識がほとんどありませんから、もってこいです。
 何日かすると、アレッと思いました。おじいさんが目をパチッと開けるようになって、しかも廊下の方を監視するように眼差しを向けるのです。何が起こったんだろうとよく見ていると、おじいさんは彼女が寝ている間、婦長さんが来ないか見ているのです。このひどい看護婦さん、自分はもちろん看護しているという意識は毛頭ないのに、すごいケアをしてるなと思いました。
 つまり、このおじいさんにものすごく新鮮な事がふたつ起こっています。まずひとつは他人にもたれられるのは十何年ぶりだということです。いつも起きあがらせてもらう、支えてもらう、寝かせてもらう……いろいろな事をしてもらうばかりで、自分が他人を支えるという経験は、この十数年なかったと思います。もうひとつは、そのおじいさんが監視を始めたというのは「私が廊下を見て監視していないとこの子は可哀想なことになる」、つまり怒られるか、あるいは停職になってしまうという意識です。「今、この子は私がいないとダメなんだ」と意識することが、おじいさんの目を開けさせたのです。
 人は他人に関心をもたれることによって支えられるだけでなく、自分が他人に関心をもつことで自分を支えることができます。つまり「してもらう」ことではなく、自分が他人に関心をもつことで、生きる力を感じられることがあるのです。
 それは、ケアする人にとっても同じで、ケアする方がケアされる人に力をもらうということが起こります。だから皆、「あんなしんどい仕事、何度やめようと思ったことか」と言いながらも、独特の魅力があって続けているのだと思います。








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