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資料I
対談録 生命に寄りそう風景
鷲田 清一 WASHIDA KIYOKAZU 伊勢 真一 ISE SHINICHI
「そばにいる」の積み重ね
 
鷲田
 きょうは「生命に寄りそう風景」がテーマで、「そばにいる」ということをいろいろな角度からお話しできたらと思います。
 伊勢さんのドキュメンタリーは、「えんとこ」にしても「奈緒ちゃん」にしても、誰かの傍らで寄りそっている人がいる姿が映し出されていますね。そういうシーンを撮っている伊勢さん自身は、人と人が寄りそうケアの風景の傍らで映画を撮っていることになります。さらに、伊勢さんの横には録音のスタッフの人とか、何重にも人が傍らにいる。まさに「そばにいる」ということだと思います。
伊勢
 本当に、「そばにいる」─その積み重ねで映画ができて、また、その映画が観られるということは、映画のそばに観る人がいることになります。
 今回私がここでお話することになったのは、私が「奈緒ちゃん」や「えんとこ」など福祉や地域に根づいた話をモチーフとして撮っているからだと思います。しかし、一方では、実は私の映画の創り方が「ケアしケアされる」という関係のなかから生まれてきているからかなとも感じています。
 たとえば「奈緒ちゃん」という映画は、実の姉にてんかんと知的障害のある子どもが生まれて、その子の9歳から20歳までの成長を家族の関わりを中心に撮った映画です。「よく12年間も撮ったね」と皆に言われましたが、あまりそういう意識はなく、ただ会いに行く、会いに行くときに、たまたまカメラとマイクがあるという感じです。
 奈緒ちゃんにとって私は、叔父さんにあたりますが、叔父さんというのは都合のいいときだけ来て子どもに小遣いをあげて、親は困っても平気でどこかへ連れ出して遊んだりするという存在ではないでしょうか。家族の周辺にいて、とても気にしているけれど、いつも気にしているわけではなくて、都合のいいときだけ気にしている、そういう叔父さんが撮った映画が「奈緒ちゃん」だという気がしています。だから「そばにいる」という感じが出ているのかなと思います。
 また、たとえばテレビで頼まれたら3日間で全部撮影を終えて30分なり1時間のドキュメンタリー作品のようなものにまとめていくことを強いられますが、このドキュメンタリーは誰にも頼まれていないので、何十年やっていても誰にも文句を言われませんでした。そのぶん「見えることだけはしっかり撮ろう」、「金はないが時間はある」とスタッフとよく話しました。
 最初は奈緒ちゃんの家族を励ましてやろうという気持ちが我々スタッフの側にありましたが、ほんの2、3ヵ月で逆転してしまいました。みんな撮影に行きたがって「早く奈緒ちゃんのところへ行こうよ」と言うのです。逆に励まされて帰ってくるというようなことの繰り返しでした。
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「見守る」距離感
 
伊勢
 「奈緒ちゃん」ができたとき、最初に奈緒ちゃんの家族に観せました。「家族に観せよう。家族のアルバムが動いたらちょっと格好いいな」と思って創った映画でしたから、試写室で家族に観せたら私としては8割方おしまいという感じでした。
 そのとき、奈緒ちゃんのお母さんが「何か、うちって幸せみたい」と言ったのです。初めてそんな言葉を自分の姉から聞きました。わざと幸せということを意識して創ったわけでなくて、ただ本当にそばにいてカメラを回し、その積み重ねを編集しただけで、それが幸せみたいだと感じるということ、とくに、当人がそのように感じるということは、どういうことなのだろうかと考えました。
 もしかしたら、誰にでも「そばにいる」という存在があるのに、それがなかなか顕在化しないということかもしれません。その点が、このように映画になると、そばにいて、こうやって見ている人がいたということが、家族にとって記録として残るわけです。
 また、姉がその後、「初めて家族になったような気がする」と言いました。他の人の眼差しのなかで家族の形がなぞられていく、気持ちがなぞられていくことの安定感があったのではないでしょうか。
 逆にそのことで批判をされることもあります。ドキュメンタリーは、今の客観的な時代性みたいなこととか、メッセージのようなものを提出するために創られるべきで、「あなたのものは、いつもホワーとしていて何を言っているのかわからない。実にけしからん」と、厳しい批判も受けるので、いいことばかりではありません。
鷲田
 伊勢さんは、作品を創るうえでは、観察者とか撮影者ではなく、友人であったり、姉の家族としてそばにいるのですが、それは、家族という密着した関係でもない、独特の隔たりのなかで「そばにいる」わけですね。撮られた側にとっては、「あっ、私たち幸せみたい」と感じたり、それによって「家族が変わったわ」と言えるような「見守る」距離感があります。
 「見守る」というと、何かをとても心配しているみたいですが、でも心配しているときだけしている、関心をもっているということですね。そういうことからも、伊勢さんが言われるように、ドキュメンタリーというのはひとつの制作行為でありながら、同時に映画を撮るというちょっとしたケアでもあると言えると思います。
伊勢
 実際、私自身がケアされていたようにも思います。理屈でそう思ったわけでなくて、ただ「そばにいたい」とこちらが思い、撮影されている側もそのことをとてもいい気持ちで受けとめてくれたのではないかと思います。
 象徴的だったのは、奈緒ちゃんはてんかんの発作があるのですが、発作があった場合にその様子を撮影するべきかどうかについて、よくスタッフたちと話をしました。そういう葛藤がありながら、不思議なことに12年間カメラの前で一度も発作を起こさなかったのです。
 状態がいいときには発作は起こりにくいものだそうです。要するに、そばにいるという関係がとてもお互い気分がよかったので奈緒ちゃんは発作を起こさなかったと言うこともできます。








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