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III−3 ケアする人のケアと「表現」の可能性
表現塾の試みから
佐々 恭子 SASA KYOKO
感じる・伝える・つながるための表現
 
 私は、2001年に福岡市内で発足した「表現塾」というグループのたちあげに関わり、現在はアートデイレクターとして、精神障害のある人たちやその家族と一緒に、表現でつながるワークショップを開いています。
 「表現塾」の活動の中心は、公的施設を借りて月に一回開催する表現ワークショップで、毎回20名前後の障害のある人たちが参加しています。身体表現、音楽、造形といった多彩なジャンルのアーティストを講師として招いていますが、年間の半分は、私自身が講師をつとめています。特に、最近は、言葉のワークショップに着目し、詩の朗読、簡単な詩の創作など、さまざまなことにチャレンジしています。
 詩の朗読や創作がおもしろいのは、表現をとおして人とつながることを実感できるからです。朗読と出会ったのは、1998年に入団した「劇団MAM(マム)」で、団員のほとんどが精神障害のある人たちで構成されているユニークな劇団です。
 新しい団員も含めて台詞の分担が決められ、台本読みをするのですが、最初は下っ端なので、新入りの私はほんの短い数行を読むことになります。しかし、数行であっても、とにかく「声を出す」ことが大きな喜びでした。声を出すことで「私はここに居てもいいのだ」と感じることができるのです。
 このことは表現塾でも大きく役立っています。表現塾では、詩を読むときも、「声を出す」ということを大切にしています。たとえば、詩の内容について、「ここがいいね」という話をしたとしても、そういうことよりも、声を出すこと、つまり「居る」ということそのものの方がずっと大切なのです。
 自作の詩を読むときも、複数の声を重ねて読む群読をするときも、自分自身の存在が肯定され、かけがえのないものに感じられます。
 劇団MAMで気づいたもうひとつのことは、自分の役割を意識することです。入団した頃は短い台詞しかもらえないので、いきおい「ここでがんばらなければ」と思ってはりきって台詞を言ってしまうものです。しかし、そうすると、前の人の台詞や、後に続く台詞とうまくつながらず、自分だけが「浮いて」しまうことになります。
 台詞を言うときは、前の人の台詞の終わりと、後の人の台詞の始まりをしっかりと聴くことが大切です。他の人の声のトーンを聴くことを意識しているうちに、自分の出す声のトーンがわかってきます。他の人の声のトーンを感じて、自分の声を伝えて、そして互いにつながると、自分が楽になるのです。
 こうした経験から、「感じる」「伝える」「つながる」ということが、表現においてとても大切だと思うようになりました。
表現することから「ケアする人のケア」へ
 
 私が今までかかわってきた病院などの表現活動では、「ケアする」立場であるスタッフは、どうしても自らサポートする側にまわろうとしてしまいがちでした。たとえば、常に障害のある参加者の状態に目を光らせていて、疲れすぎていないかと観察したり、道具が足りなかったら真っ先に走って取りに行ってしまうというようなことです。せっかく表現を楽しむ場であるにもかかわらず、スタッフが常に緊張しているため、それが表現する場全体の雰囲気をも硬くしてしまうことがよくあるのです。
 「表現塾」は、障害のある参加者もスタッフもともに表現できる場を創ろうと、市内の精神障害者小規模作業所のスタッフや所長をつとめている有志が集まり発足したグループです。
 発足した当初は、自分自身が表現することにとまどいが見られた表現塾のスタッフたちも、最近では参加者と一緒に表現をとても楽しんでいます。この変化の一番のきっかけは、2002年2月に福岡市内で開催された「みんなの集い」というステージイベントでした。
 「みんなの集い」は、精神障害のことを多くの人に知ってもらうことを目的に、市内の精神障害者共同作業所が集まり、10年以上前から毎年開催しているものです。
 11回目を数える2002年の舞台では、表現塾のスタッフをはじめとする作業所の職員やボランティアが、障害のある人たちと一緒に出演することになりました。一緒に舞台美術を制作するプロセスでは、作業がすすむにつれてスタッフが制作に没頭するようになってくるのがわかりました。また、舞台当日は、スタッフたちも舞台でそれぞれの役割を演じ、台詞を言うことを楽しみました。ふだんは「作業所の所長」として接している他の人たちにとっても、舞台で演じる「所長」の姿はたいへん意外だったようです。
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「みんなの集い」(2002年)では、障害のあるなしを超えてみんなが表現を楽しんだ。
 
 しかし、こうした舞台の実現には、時間がかかります。私は前年の2001年の「みんなの集い」から関わりはじめたのですが、「当事者のための企画だから」「当事者を前面に出して」ということで、障害のある人たちだけが舞台に立つか、あるいは、スタッフが出たとしても常にサポート役というのが慣例のようでした。
 本来、こうした舞台は、障害のある人とそうでない人が一緒だということを多くの人に伝えていくための企画であるはずです。そして、表現というのは、同じところで、同じものを見たときに、そこから感じることをともに表現していくことです。表現する場においてまで、障害のある人とそうでない人を区別する必要はないのではないかと考えました。
 このような活動のなかで私が感じてきたことは、「ケアする人のケア」のためには、ケアする人に対する特別のプログラムということだけでなく、ケアする人の役割や肩書きをはずす時間と空間が必要だということです。
 表現するときには、「サポートする人」という役割をはずすことで、リラックスして表現することができます。役割や肩書きをはずして、表現に没頭できたときにはじめて、ケアする人にとってのセルフケアができていくのではないでしょうか。
表現の可能性
 
 「みんなの集い」の舞台を終えたとき、精神障害のある出演者の一人が「生きててよかった」と話してくれました。こころに病をもつ人の「生きててよかった」という言葉はとても重みのある言葉です。その人は続けて「そういうふうに言うと、おおげさに聞こえるかもしれないけれど、自分は本当にそう思ったんだ」と話してくれました。表現とは、表現するその瞬間をともに生きることだということを確認した瞬間でした。
 表現は、人とつながるためにあり、表現するということはそのプロセスも含めて「生きる」ということです。さらに、表現は生きる幅を広げることでもあると考えています。
 たとえば、障害のある人が、社会の規範に合わせて生きていくことが難しい場合、表現することによって、社会の規範に合うか合わないか、そのボーダーの辺りで生きていくことができるのではないかと思います。
 具体的にはこのような試みがあります。表現塾ではさまざまな言葉のワークショップを試みていますが、あるとき「あ・い・う・え・お」という頭文字で始まる言葉で、一人ひとりが順番に言葉を連ねて詩を作っていくワークショップをしました。家族やスタッフが作ると、「元気で」「笑顔で」「みんなで仲良く」など、社会的な役割によって慣れ親しんでいる言葉が並びます。一方、障害のある人は、あるがままに支離滅裂なことも含めて言葉を発するのでとてもおもしろいものができます。表現としては、こちらの方が魅力的だと感じることが多いのです。
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「表現塾」朗読ワークショップ
 
 表現することによって、「こうあらねばならない」ということから、生きる幅を広げることができるのではないでしょうか。そうであれば、生きにくさを感じている人にとっては、表現というもののなかに「生きやすい自分」を見つけることも可能です。ケアする人にとっても、「ケアする」役割からいかに生きる幅を広げていくか、そこに表現の可能性があるのかもしれません。
 表現塾では、2002年から「表現の種まきプロジェクト」を計画しています。これまでの月に一度のワークショップを、要望のある場所に出向いて実施するプロジェクトです。表現の本質が何かを確かめながら、人と人のつながりがさらに広がっていけばと思っています。
 
佐々恭子 (造形作家)インタビューより編集
【表現塾 〒814-0103福岡市城南区鳥飼7-17-4 しののめ共同作業所内(吉村 眞紀子)/tel 092-851-7528】








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