日本財団 図書館


III−2 セルフケアとしてのグリーフワーク
将来ケアに関わる学生に向けて
半田 結 HANDA MUSUBI
 
 「ケア」への関心と議論が高まるなかで、ケアは一方的なものではなく、双方向的な行為であるという認識が広まりつつある。しかし、現実には、現場の人間関係は上司と部下という関係性に陥りやすいことに加え、業務と個人の生活の忙しさに追われ、バーンアウト(燃えつき症候群)したり、病気になる人も少なくない。自分が望む仕事に就いたはずなのに、何のために仕事をしているのかという目標を見失ってしまう人もいる。
看護や社会福祉といった将来ケアに関わる学生の教育に携わることで、筆者が実感させられたことに、ケアする人たち自身が何よりもまずセルフケアされる必要があるということがある。もちろん誰もがセルフケアを学び、知る必要があるのはいうまでもないことだが、特にケアや対人援助に携わる人にとって、自分を自分でケアする必要があることを受け入れることは極めて重要なことである。
 看護や社会福祉を学ぶ学生たちは、当然のことながら直接ケアに携わりたいという積極的な動機をもっている割合が極めて高い。それは往々にして、自分は何もできなかったから何か専門的な技術を身につけたいという表現で言い表される。家族や身近な人の病気や障害、死といった直接的な背景がある場合もあれば、直接関係はなくとも大災害などで多くの人が犠牲になったことを知ってという場合もある。なかには家族の死に直面して何もできなかった自分を責め、無力感に苛まれつつも、だからこそ何かをしなければならないと必死に学ぶ学生もいる。
 サイコセラピストやカウンセラーは、自分のことを知り、自分を客観的に見るために長時間にわたる教育分析を受けるが、対人援助に直接携わる多くの業種でそのようなことが行われることはあまりない。もちろん専門的に学ぶ過程で自己覚知やセルフケアの必要性についても学ぶが、それを日常のなかで具体的にどのように行っていくのかについては、まったく個人に任されているというのが実情である。実際、職場では専門職としての技術や能力を高めるための研修やスーパーバイズ1) が行われることはあっても、職場や身近なところでスタッフが慰労されるのは忘・新年会などの飲食の場面が多く、スタッフがケアの対象になることやセルフケアについて再学習することはほとんどないといってもいい。
 筆者は、芸術関係の授業を担当する一方で、学生たちと死別体験の研究会を開いてきたが、そのどちらにおいても自分自身を振り返る時間をもち、まず自分自身をケアすることの大切さを伝えたいと思ってきた。実際の活動を取り上げながら、ケアする人のケア、特にセルフケアについて述べてみたい。
 
[註]
1) スーパーバイズ:援助者が提供するサービスの質の向上や、スキルの向上のために行われる相談や指導
「自分史」を描く
 
 今までの自分を振り返ることはグリーフワーク(喪失の悲しみを癒す作業)の一種であり、現在の自分を客観的に眺めるうえで重要なことである。色や形は言葉では表現できない多くのことを表現できる。行動することは、時に、非社会的、あるいは反社会的な反応として制限されるが、色や形で表現することはまったく自由である。どのような感情も衝動も表現してよく、それによって解放感を得たり、新たな見方が生まれるようになる。
 自分史を絵で表したり、今までの人生のなかで強く印象に残っている出来事を描き、その後で、二人、あるいはグループでシェアしてもらった。
 
 「彼女は私の感じた苦しみと似た苦しみを味わってきたのだと思った。二人にとっては、まったく違う問題だったのに、いろいろなところで共感することができた。他人の痛みを知ることで自分の痛みもあらたに理解できることがわかった。今までは思い出したくもない嫌な思い出だったものが、“いい”とはいえないけれど、でも“体験することができて良かったのかな?”と思えるようになった。」(20歳、女性)
 
 「どんな感情を感じてもいい。自分が感じたこと、思ったことに対して自分を責める必要はない。そう気づいたとき、何だか肩の荷がおりたような感じがした。何を感じて、どう行動するかは、人それぞれなんだから大丈夫と背中を押してもらった時間だった。傷つかない人も傷つけない人もいないのだから、これからはもう少し自分に素直に生きたいと思った。」(20歳、女性)
「死のイメージ」のコラージュ
 
 看護や社会福祉に関わるということは、当然ながら生と死を強く意識せざるを得ないのであるが、現実の病院や施設では死は隠蔽されている。実習で、ある特別養護老人ホームに配置された学生は、「ほとんどの人がここで最期をむかえることを利用者もスタッフもみんなが知っているのに、誰もそのことを知らない振りをして、元気になりましょうと話しかけているのは、あまりに不自然だった」という。死がタブー視され、日常では見えなくなっている状態では無理もないことかもしれない。
 自分自身が死をどのように捉え、イメージしているかを考えてもらうために、死のイメージについてコラージュを作ってもらった。コラージュは描画よりも抵抗感が少なく手軽にできるので、現場でもレクリエーションや作業のひとつとして活用できるという利点もある。
 
 「“死”と聞いてはじめはただ真っ黒に塗ればいいやと思っていたが、考えているうちに、命が繋がっていることや、自分はどこから来てどこに行くのかなど、逆に“生”のことを考えさせられた。」(19歳、男)
 
 死はデリケートな問題であり、死別を体験している学生もいるので、いつでもサポートできるよう注意が必要である。このコラージュでは死に関する典型的なイメージがいくつか見られ、鳥や飛ぶものもそうしたもののひとつである。写真[1]は亡くなった祖父を弔うかのように凧を作った例である。
z1064_01.jpg
「大好きだったじいちゃん、成仏してくれ!」(18歳、男)写真[1]
 
「死別体験研究会」
 
 この研究会は、死別を体験した子どもたち(かつての子どもを含む)と出会ったときに適切にサポートできるように、月に一度の割合で開催されたものである。参加者は子どものグリーフワークについて学ぶことで、死別を体験した他者へ特別な援助をしたいと考えていた学生がほとんどだった。しかし、何よりもケアやサポートを必要としていたのは、実は、過去に家族や親戚、友人などの親しい人、あるいは自分にとって意味のある人を亡くしていた自分自身だったことに、参加者は気づく。
 
 「私が福祉を学ぼうと思った理由のひとつに、曾祖母の死があったのだということを、この研究会で思いだした。亡くなる前も亡くなったときも、何もできなかったばかりか、涙もでなかった。まるで木が折れたような感じだった。この研究会では、突然、無理矢理いろんなことに気づかされたような感じがした。雷に撃たれたような感じだった。でも雨が降っていて、そのうち芽が出てくるだろうという確信があって、私にとってはすごくポジティブな絵です。」(20歳、女性)写真[2]
z1064_02.jpg
写真[2]
 
 「今まで、死や死別についてこんなにじっくりと話しあうことはなかった。自分のなかではずっと関心があった死別について深く考え、話を聞き、また自分の話を聞いてもらえたことは大きな意味のあることだった。自分でさえも気づくことのなかった死別体験を深く自分のなかに沈めていたことを自覚し、その感情を解放したこと。また、そんな自分を受け入れることでグリーフワークはできていくのだと思う。その過程は時にきつくて辛いけれど、気づけばちゃんと乗り越える力を人はもっていることがよくわかった。」(22歳、女性)
 
 このように授業や研究会、ワークショップなど多くの場面で、描画やコラージュ、粘土などの美術的な方法を用いて表現することで、自分の過去や現在、そして未来を振り返ってもらってきた。つまり、グリーフワークを行ってきたわけである。自分に何が起きて、何が起こらなかったのかをきちんと知ることは、自分のなかに力があることを感じさせてくれる。外から「力」を身につけなくても、ありのままの自分でいいことを思い出させてくれるのである。
 感情を抑え込んで自己をコントロールし、合理的な判断をすることで評価を得ることをよしとする社会のなかで、こうした美術的な表現をすることは幼稚に見えるかもしれない。しかし、無邪気でありのままの自分の感覚を取り戻すことは、自分を知ることの第一歩である。
 何よりもケアや対人援助を学ぶ学生たちは、患者や利用者にとっていいケアをしようとするあまり、あるいは誰も傷つけたくないし自分も傷つきたくないばかりに、自分をがんじがらめに縛りつけていることが少なくない。そうした内なる批評家は、他者の承認を得ようと徹底的に自分を押し殺し、共依存へと導く。
 
 「グリーフワークはまだよくわからないけれど、暖かい感じがしました。そして勇気をもらいました。自分はこうすべきだからと、強く思うことによって自分のなかの自由な部分を強く拘束していたことに気づきました。そう思わなければダメになると思っていました。でも、この考えかたが自分の可能性を閉ざしていることに気づきました。」(20歳、女性)
 
 「これまで、僕というものにこれだけの意味があるとは知らなかった。自分の描きたいままに描いた絵が、いつも自分の気持ちや自分以上の何かとして表れていると思うとうれしいような不思議な気がした。」(21歳、男性)
 
 自分が縛りつけている弱さや嫌な部分に気づくことは、自分自身を認めることである。自分を自分でケアするということは、自己の感覚を自分のなかに取り戻すことだといってもいい。そして他の誰でもない自分自身こそが自分をもっとも深く承認するのだということを、ケアに関わろうとする人は特に忘れてはいけない。
 
半田 結 (東北公益文科大学公益学部助教授)
【共著に「死の社会学」(2001年,岩波書店)、「アートとミュージックの未来形」(2002年,創言社)】








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION