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たくさんの私が生まれるために
 
 こうして、箱に自分で持ってきたものをいろいろ置いていく作業では、ときどき自分を振り返ることがあります。どう配置して、どう置くのか?前もってイメージはあるのですが、それを、その都度、ここにいる私がすべて決めて進めてゆくというわけでもなさそうな気がします。できあがったものを眺めると、絶対、私ではない「だれか」がいたようにも思える。気に入ることをしている自分、それをどんどん修正して、いろんな角度で見ようとする自分。それはたぶん、全部で私のことなんですけどね。実際にやってる現場では周りに見ている人がいますしね。これは一人でやってるときと違うところですね。一人でやっていいなあと思う場合とみんなの前でやって、みんながいろいろ言うのでなんだか反感を覚えたり嫌な場合とかいろいろありますけどね。当然ですが、そのだれかが勝手に決めることはないんですけどね。誰かが見てくれていて、声をかけてくれて、そこで私は固持したりするし、あるいはまた、その人びとにどんどん流されてしまったりします。そして、何かしら意味のあることに触れられたり、他人の洞察みたいなことには敬意を払ってしまいますね。そう、自分の箱庭に他人から鋭いことを指摘されたりすると感動しますね。銅金さんなんかが、私の箱庭の話なのに話の途中で突然、「それは違うと思う」とか言うんですよ。驚きますよ。なんで?どこがどう「違う」んでしょうね。別に私の架空の話なのに。「違うも何もないですけど、銅金さん、関係ないでしょう?」と心の中で思って。でも、銅金さんは関係ありそうなそぶりなんですね。まっすぐこっち向いて。ちょっと真摯に意見されると、そっちの方がいいかな、とも思えてくるんですよ。思うに、いろんな局面で、みんな、いろんなポリシーを持っているんですね。それを言うか言わないか。この場ではそういうのはどんどん出てくるんですよ。だから私は流動的としかいいようがない状態におかれてしまうと思います。そのときの「わたし」の判断や行為は前もっても、後からでも何らかで規定することなんかできないだろうと思います。日頃、「あるべき私はこうなんだ」ととらえようとする私がいつもはいるのに、そう思いつづけて、この日常は続いてゆくんだけれども、ただ、こうして、箱にどんどん物を置いて制作してゆくことでは、その私に言及しようとするとき生じる私のよるべなさ、決定し難さ、というか私なのに私ではない、もういままでの私はいないというパラドックスみたいなものを漠然と感じてしまいます。これはいったいどういうことなんでしょうか。
 こういう風にちょっと不安に思うこともあるんですが、一方で、別のことで見出せることがあります。それも興味深いことだと思います。それは、ここにいて、あそこにもいて、あらゆるところに同時にいる私ですね。あらゆる時間を享受しつつある多様さというか、たくさんな可能性というか、たくさんの私が。そういう私の感じも溢れてゆくのがわかるんです。それが私自身が開放されたと思う瞬間ですね。それは創造的ともいえるかもしれません。この経験は確かに重要だと思います。仮構というか虚構なんですけれども、それが自分のなかでリアルに変換する契機なんでしょうか。だから、そういう自己矛盾、自己言及に落ちこんで、この私はだれ?ということに答えてはだめだと思います。これはある種の追い詰め、強制みたいに思います。日頃、自分はこうあろう、と思うことなんか。そんなこと思わなくていいんだと思いますけどね。問題はそういう「問い」とか問いかけの構造にあるんじゃないですかね。よくありますよね。お話を話す人、聞く人、そんな「物語」のあり得る構図というか、「話す─聞く」の対立、というか、対立的な構造は一種の罠のようなものかもしれません。その罠にかかるとだめなんですよ。かかりっぱなしだと、ここにいて、あそこにもいて、あらゆるところに同時に、あらゆる時間にたくさんな可能性のたくさんの私というものが、すごく限定されてしまうように思えますね。よく、もう一人の本当の私を探して、とか、自分らしくある、っていってさも隠された私が一人のようですが、それは決して一人ではないんですね。どんどん流動していく私は、すごくたくさんいることに気づかないといけないんではないでしょうか。
いま、ここで生まれる創造性
 
 こんなことを聞いていると、みんなもだんだんおもしろくなってきて、どんどん、自分の話も受け入れられるようだから、なかなかまんざらでもない気分である。しかし、ああ、だからか、話すことがどんどん溢れてくる感じがする。でも、それを冷静に眺めるいつもの私もここにいるのは確かだ。だからあんまり、ハメをはずすなよ、とか忠告したくなる。とはいえ、もうひとりの自分はなんて凡庸なやつなんだろう。だめだな。私はこんなに楽しいことを考えついて有能な感じなのに。いや、もともとそんな能力あったかしら?なかったとしたら、もしかしたら私は、いま、ここで生まれ変わったのかもしれない。この2週間、この箱庭を作成するのにいろいろ考えてきたから。これだけ苦労していろいろ考えたんだもの。いろんなものを自分で作ったり、買い物に行っても、なにかしら利用できるものがないか、ついつい見ないでもいい余計なものを見たり、ついには買ったりしてしまったものです。そうして、ずっと、あけても暮れても考えてきました。こんなに1つのことに集中したのはひさびさで、だからこれについて何かしら話すことにはことかかないし、むしろ話したりないくらいで、頭にいろいろ思いついて溢れる感じなんです。そうだから、こうしてどんどん話しているのです。
 しかし、思うに、実は正直に言うともっとおもしろいことがありますね。
 それは、つまり、こうして話していても、過去のことではなくて、今、はじめて考えついたこともたくさんあるということ。どんどん考えて、勝手に浮かんでくるんです。どっちかというと、いま、思いついたことが本当のような気もしてきます。しかし、これは、たったいま思いついたことなんだけれども、みんなの手前、それを、ずっと前から考えていたことにしよう。そういう振りをするのもいいかもしれない、とか思います。その方が得策だし、思慮深い、というものかもしれない。また、そういう感じで、今のことをみんなにここで話すのがいいようにも思います。そういう自分がなんとなく誇らしくなったりします。
 こうして、2人かそれ以上の自分の思うことが相乗化してどんどん湧き出してくるのである。自分の考えを述べたりなんらかの表現をするときには、日常的には話し言葉や書き言葉につい比重を置きがちだが、自分を表現する、自分を発見する方法は他にも沢山ある。そこで、このガーデンシアターという箱庭園芸はだれにでも簡単にできて、ただ、みんなに話すというプレゼンテーションがあって、それでハードルにもなるが、それを克服することには、上述したように意義があるようである。夢の物語を紡ぎながらたくさんの自分に出会いつつも、ここでは、長い時間をかけて生きた植物を栽培しないといけないので、季節や環境やらで一筋縄ではいかない困難な実際の現実もあるという極めてリアルで実際的な一面ももつ、ということになるのである。
ケアする人のケアにむけて
 
 あえて言えば、このワークショップは、いかに世界に、つまり、自然なりさまざまな生物に対して、わたしたち人間が現状、どう関わり得るかを各自で各自なりに確認する作業でもある。箱庭の生命世界に降り立って、その世界から人間を計る。世界の声を聞く。人が世界に対して可能なことはどんなことなのか?思うに、わたしたちは、あまりにもまわりの生命に対する「掟」みたいなものを忘れているように思える。現在の人間にとって、他の生物への「掟の門」とはいかなることなのか、これの解明の希求がこの試みの真髄であると思っている。もし、この試みに参加された人が、どんな重度の障害をもった人でも、あるいはいかなる重病である人であっても(その人がだれかにどれだけケアされる必要があろうとも)、むしろ、人がケアしないといけないのは、人間以外の生命であることを確信し、身近な生命に対する「慮り」のようなものが生まれることこそに意義を見出したい。おおげさに言えば生命の尊厳に触れることを目的にしたい。ケアされるのは人ばかりではない、というのはこの試みのテーマでもある。
 だから、「だれかをケアする」という考え方がここでは困難であることを告白しないといけない。このことによって人がケアされ癒されるということ自体はまったく明確にできていない。いや、場合によってはケアと正反対の大きな負荷になったりもしているだろう。こんなワークショップは大きな負担、どっちかというと余計なお世話、かもしれない。そして、ケアといえば、やはり、傷なり怪我なり、精神か身体になんらかのマイナス要因があって、それを平常状態に戻すということになろうか。この試みにそんな大変なことができるとは思えない。せいぜい、気晴らし、気分転換になればせめてもの救いだろう。
 人にとって、この試みに意義があるとすれば、それが収束してゆくのは、あくまでも創造の荒野をいかにして突き進むかでしかないだろう。だから創造的な心理がなんらかのケアすることと繋がっていることを願うばかりである。
 創造的精神にまさる治療薬はなし、とはだれが言った言葉であったろうか。
 
銅金 裕司 (バイオ・メディアアーティスト、植物学者)
 ランの生理生態研究で学術博士号を取得。植物体から葉面電位を測定して植物とのコミュニケーションを試みるインターフェイス「プラントロン」を開発する。現在は、東京藝術大学で「環境と生命と表象」について論じつつ、あたらしい環境芸術あるいはバイオアートを模索中。








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