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II−3 ガーデンシアターその物語の変容
銅金裕司 DOGANE YUJI
創る能力
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箱庭を劇場に見たてて、一人ひとりの物語が紡ぎ出される
 
 いろいろな箱に生きた植物を植えて、なつかしい思い出の小さなおもちゃやオブジェを配置する。入れ物から溢れんばかりの背景や、ときには音楽なんかも用意してくださる。参加者どうしでコーラスとか演劇とかされる場合にはすごく盛り上がるものである。そして、何か特別なお話をしてもらうこと。そのとき参加者全員で真剣に聞きこんでゆくことになる。創作のお話を考えて、話してほしいと依頼はするものの、架空の話がむつかしいときは、用意された植物やオブジェの由来や思い出について話してもらう。だからはじめは身近なところから話されることが多い。いろいろ聞いているうちにその箱そのものの世界について語ってくれて、だんだんその人の夢が広がってくることもある。そこにはその方の世界観みたいなことに触れることができる。だが、創作の話が聞けることはそんなに多くはない。ワークショップの目標としては、制作者の創作の物語が聞けるように仕向けていきたいものとは思っていてもままならない。架空の話を作ることはけっこうむつかしいようである。しかし、おもしろいことに小学校低学年や幼稚園の子供たちが話してくれる物語では、そのほとんどが架空の話なので(一部、真実であるというフシもある)、年齢を重ねるとそういう創作の能力は落ちてくるものなのかもしれない。もしかしたら、創作能力の欠落が学校教育の弊害だとしたらゆゆしきことだと思う。一度、小学生の学年別でどうかを見てこのワークショップをしてみたことがある。すると高学年ほど、親の目を気にして制作されていたようであった。親の思惑が子供の創作に大きく影響しているのである。それが、創造能力と関係しているとしたらどうだろう。こうして、中学生以上や大人では多くの場合、創作的な話よりも、個人の経歴的な話から始まる。とはいえ、一方、老人たちで試みた場合においては、高齢な方ほど、こういうちょっと変わった試行への理解はなかなか深いし、積極的にファンタジックな箱庭構想とか荒唐無稽な物語が生まれてくるのである。みなさん、「こういうのを前からやってみたかった」と口を揃えておっしゃられるのである。植物を使って箱庭を作成するのであるが、高齢の老人たちからは植物の妖精の話が頻発し、さっきまで一緒だった風でもある。「あれ、そこにいるじゃない」とか言われると実に不思議ではある。しかし、これはいったいどういうことなのであろうか。
かたり
 
 それぞれの方が、自分のことを話そうとする時、言葉だけでは上手く表現できない部分や、素直に出せない部分があったりする。しかし、そのことは箱に植えられたよく手入れされた植物や古ぼけたオブジェがもの言わず、それとなく語られない感じを指し示したりもする。箱に置かれたものの劇場の世界では、なんとなくその人の人柄や自然な様子は感じることができるものだ。
 物静かで穏やかだと思っていた人が、色使いの激しい大胆な作品を作ったり、どきっとするような裸体の人物のようなオブジェや話をされたりする。自分はおおざっばだといつもは称する人が、意外に細かくきっちりとした下書きをしてきたり、周到な準備をしたものを作ったりする。気に入った小道具が見つからないので自分で苦労して材料を集めて、工作される人には枚挙のいとまがない。一方、いつもは大人しくて、だれかの後ろで静かにしているような男の人が、まれに自分の話す物語に感動して最後には声をあげて泣いたりもする。でも、それがあんまり恥ずかしいことだとはみんなも思えない。自分も、その人も、その人の友人も、その人の別の一面を見ることが出来るので、その後のその人とのつきあいのなかで、「そういえば、この人はあんな部分があるし、鋭いことや、おもしろいことを言ったりすることも持ち合わせているからなあ」とちょっと認識が変わったり、尊敬の念が生まれたりもする。いつもと違うことができたり、新しいことが芽生える可能性がここではある。
もうひとりの私
 
 多くの場合、話しているうちに、自分が気づかない別の自分が存在していることに気づいてくる。おもしろいことに、そのもう一人の自分はどんどん話しつづけるのだが、いつもの自分なんかでは思いもしないことをしゃべっていることがある。そんな風に箱庭を作って、いろんなことをしばらく話していると、もう一人の語る自分を、別のここの私が眺めている感じが生まれてくる。もう一人の自分に思う。あなたはいったいだれ?どこから来たの?そんな風にもうひとりの自分を不思議に思うことがある。この物語る私はいったい誰なんだろうか?ここにいる私ってどっちがほんもの?いつもそんなにしゃべらないし、新しく思いつくことも少ないし、ましてやそれを口にしたりなんかしないし、自分としては貞淑な感じがよくて、それがごく普通なのに、もう一人の私は、どうしてこんなにいろいろ思い浮かんでくるのだろうか。頭がおかしくなったのかもしれない。でも、こんなに気の利いた、おもしろい、楽しい思いつきがどんどん生まれてくるのは不思議な気分である。いつもこんなことはありえないことなのに。しかも、聞いているみんなもまあまあうれしそうだし、こんなに人びとを穏やかな表情にする話を、この私がしているのかなあ。不思議なことだ。いつもは人前に立つのもいやだし、話を聞いてもらうことなんかはもっとも自信がないことなのに。
自分用のやさしいベッド
 
 それがどうしてできるかを考えてみると、そう、ここにはそんな雰囲気ができていることにもあるかもしれない。どんなことでも許してもらえそうである。聞いている人はみんなニコニコ笑っている。ゆったりリラックスしている。立ったりすわったり自由にしている。銅金さんなんかは、だれかと自分のことを噂しているようだけど、楽しそうにこっちに手を振っている。何を話しているのかな?ここには、なんだかやわらかくて穏やかな、聞いている人みんなの心のベッドのようなものがある。このやさしいベッドはなんなんだろう?これは、だれが作ったものかもわからないし、理由はまったくわからないが、そのベッドはどうも自分用にしつらえられてるような気もするものだ。自分用のやさしいベッドがあることがうれしい。はやく飛び込んでゆっくりしてみたいと思う。
 そんなことを思っていると、だれかが銅金さんに「自分用のやさしいベッド」について質問している。「どうして自分用なんですか?」銅金さんはこう答える。「カフカでね。門番の話があります。「掟の門」。岩波文庫のカフカ短編集のトップのお話ですね。この話も箱庭っぽい、ガーデンシアターのお話みたいなんですけどね。人間の老齢化という植物的な長い時間が背景で流れているし。まあ、それはともかく。田舎から出てきた男が、「掟の門」の前で、門番に、「入れてくれ」と頼むんです、でも、「駄目だ」と断られます。門はあいているんですが、怪物のような怖い門番が恐ろしくて入れないわけです。田舎から出てきた男は仕方なく何年も待ちつづけるんですね。そのあいだ、門番には入れてもらおうといろいろ品を贈ったりするんですが、それでも、門番は賄賂くらいでは心を許すこともなくて、その田舎から出てきた男は絶対に門の中には入れてもらえないんです。そして、何年も何年も経って、田舎から出てきた男はしだいに視力が弱り、とうとういのちが衰えてしまうんですね。そして、その田舎から出てきた男はあきらめ切れないので、死のまぎわに、門番にはじめての問いを投げるんです。つまり、「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、この門の中に入れてくれといって来なかったのでしょうか?」と。すると、いまわのきわの男に、門番はこう言ったんです。「この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」と。なかなか。しぶいですね。そう、閉ざされた門、が、じつは各人めいめいに、特別な感じで存在するんだけど、このガーデンシアターというワークショップでは、それが、仮想的といえども、運がよければ「掟の門」が開放されるのかもしれない、ということがあります。だから、あなたが言うようなあなた用のベッドがあるような気がするのかもしれませんね。そして、みなさん、もっと重要なことがあります。それは、もしカフカの語るこの物語をも超えて、先にすすんで、そう、門番をやっつけるか懐柔するかして、あなた用の門を通り抜けたとしますよね。ガーデンシアターのように、あなた用の門に入れたとする。しかし、ですね。しばらくすると、また、次の門があって、怪物のような怖い門番が、また、恐ろしくて入れないんです、きっと。問題はここなんですよ」。
 すると、また続けて質問が出る。では、「その門を入るためにはどうすればいいんですか?」「それは、そこでは個人が1回はできる経歴のような話ではなくて、なんらかの創作的な話をするようにがんばらないといけないです。掟の門は創作の門でもあると思います」。








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