朗読をきっかけに溢れだしてくる心の言葉
自分の心を自分で語るのはむずかしい。何重にもプロテクトがかけられ、なかなか本心を語ることができない。心の深部を人にさらけだすことは、だれにとっても恐ろしいことだ。いや、それ以前に、自分で自分を見つめることさえ恐いことなのかもしれない。
ところが、自分の好きな作品を声に出して読み、その魅力を語り、それを人に伝えようとすると、人はあきれるほどまっすぐに、自分の心をさらけだしてしまう。作品を語るつもりでいて、その実、その作品に心惹かれてしまう自分自身を語ってしまうからだ。
「朗読」という、小学校一年生でもできる簡単なことをするだけで、人はここまで無防備に自分自身を語ることができるのかと、わたしはただただ、驚きをもって見守っていた。いったん言葉が流れだすと、心の底に押しこめられていた思いが喜び勇んで躍りだしてくる。溢れる言葉。もっともっと話したい、もっともっと聞いていたい。そんな思いを断ちきるようにして「このへんで」と止めないと、次の人の順番が永遠に回ってこないのでは、というような状態だった。
語り終えた人々は、心のうちを吐きだして一様にさっぱりとした顔をしていたし、聞き手も、みんなの人生に触れられて、豊かな時間を過ごすことができた。
ハレの言葉 ケの言葉
「朗読」が、どうしてこのように機能したのか。普段、滅多に明かすことのない心の中の深いところにある言葉に、なぜ易々と直結することができたのか。それを、人々が深く共有できたのか。それを思ったとき、ひとつの光景が思いだされた。
与論島にいったときのことだ。その日はちょうど旧暦での雛祭り。島では「浜下り」といって、女の子の成長を祈って、親類一同が浜辺に集まり、宴会をして、ともに神に祈りを捧げる。わたしは偶然、そこに出くわした。よそ者のわたしを、島の人々は笑顔で迎え入れ、酒を飲め、よもぎ餅を食べろと大歓待。飲めや歌えの大宴会が一段落すると、車座になったそのなかから、長老とおぼしき男性が立ちあがって、挨拶をはじめた。
すると、ほかの人々も立ち上がり、居ずまいを正して、その言葉に聞き入る。そうやって、端からひとりづつ順番に、子どもの健やかな成長を祈る言葉を捧げていったのだ。
すでにかなり酔っぱらっているに関わらず、人々はしゃんと背筋を伸ばし、じっと耳を傾ける。さしてむずかしい言葉を使うわけではない。畏まってはいるが、ごく日常の言葉だ。しかしそこに「日常のおしゃべり」とはまるで違う高いテンションを感じた。
これは「ハレの言葉」なのだと、わたしはその時、感じた。日常の、あぶくのように流れていってしまう「ケの言葉」ではなく、節目節目に語られる大切な言葉。深い願いが込められた言葉。それは、言霊が込められた、密度の高い結晶した言葉なのだ。
ワークショップでの「朗読」は、ある意味、このときの言葉にとてもよく似ていたのではないだろうか。
そもそもが、文章は日常の言葉のように「ゆるい」言葉ではない。吟味され、推敲され、結晶化した言葉だ。そこには、日常の言葉にはない密度と緊張感が漲っている。
そのような、結晶化した意味深い言葉を受けとめるためには、聞く方にも緊張が必要だ。日常のおしゃべりのように適当に聞き流しているわけにはいかない。人々は、耳を澄まし、心を澄ます。
そうやってじっと耳を傾ける人々の前に立って読むということは、読む側にとっても緊張を強いられることだ。背筋を伸ばし、襟を正し、心を強く持って読まなければならない。
そのような緊張感に満ちた時間。それは日常とは違う「ハレの時間」ではないか。だからこそ、人はいつもよりずっと真剣に語り、真剣に聞くことができるのではないか。
他者に耳を澄まし 自分に心を澄ます
そのような緊張の時間を経て、人は語りだす。自分がなぜその言葉に心惹かれたのかを。あの儀式にも似た緊張が解けるようにして、言葉が、心が、とめどなく溢れだしてくる。「ハレの言葉」が「ケの言葉」に移行する瞬間だ。緊張して耳を傾けていた人々も、ある種ほっとして、その語りに耳を傾ける。
けれども、そこにある「ケの言葉」は、いつものあぶくのような意味の希薄な言葉ではない。当たり障りのない、世間話ではない。朗読という「ハレの言葉」によって呼びだされた、心の深いところにある言葉だ。心の真実を語る言葉だ。
だからこそ、聞く人はそこで、他者の心の真実に触れることができる。他者という物語に触れることができる。他者の心の声に真摯に耳を傾けること。それは、自分自身の人生をより豊かにすることに他ならない。そうやって「朗読」という場で、人々はいくつもの人生や、物語に触れ、それを自分自身と交錯させることができるのだ。
それだけではない。受けとめてくれる人がいると実感して、はじめて出てくる言葉もある。語るためには、語る自分の心の声を聞かなければならない。語る人は、知らず知らずのうちに、他者だけではなく、自分自身に向き合うことになる。自分でも気づかなかった、自分のなかの深い心の声に耳を澄ますことになる。
深く豊かな時間を共有するために
ワークショップという思いもかけないチャンスをいただくことで、わたしの朗読体験は、自らが読むというところから、他者の声に耳を澄ますことへと広がっていった。それが、思いがけず深く豊かな時間を与えてくれたことに、わたし自身がびっくりしている。
その後「たんぽぽの家」でもワークショップをする機会があった。普段顔を合わせてはいても、なかなか心の深いところを話す機会のない人々が、「朗読」をきっかけに、互いのことをより深く知ることになったと喜んでもらえた。どんな本が好きなのか、どんな言葉に心惹かれるのか、そんなことを知ることは、互いをよりよく知るいいきっかけだ。その後、自然発生的に「ちょっと本を持ち寄って、朗読しながらお茶会をしましょう」という話ももちあがっているときいて、とてもうれしい。
深く豊かな時間が流れる。たんぽぽの家でのワークショップ
指導者も専門家も必要ない。上手く読む必要もない。へたならへたでそれも楽しい。日常のなかで、みんなが小さな「朗読」という時間を持つことで、思いもよらぬ深く豊かなひとときを過ごすことができる。お金だってかからない。物質の豊かさから、心の豊かさへの移行は、こんなところから自然と広がっていくかもしれない。
例え百年生きたとしても、この地上にいる時間は一瞬に等しい。「朗読」を介して自らの物語を語り、他者の物語に耳を傾け、深く豊かな時間をたくさん過ごせたらと思う。
寮 美千子 (童話作家・詩人)
外務省勤務を経て、1986年に毎日童話新人賞を受賞。近年は音楽家とのコラボレーションで、自作の詩や小説をリーディングするライブを重ねる。現在、和光大学非常勤講師として「物語の作法」をテーマに講義をもつ。作品に「小惑星美術館」「ラジオスターレストラン」「ノスタルギガンテス」「星兎」「青いナムジル」、翻訳絵本に「父は空 母は大地」(いずれもパロル社)など。