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II−2 自己の物語に耳を澄まし 他者の物語に心を澄ます
朗読という小さな試み
 寮 美千子 RYO MICHIKO
 
 地上がまだ凝まらず、脂のように漂っていたとき、イザナギとイザナミは、美しい玉飾りをした矛を海に突きいれて、ぐるぐるとかきまわした。
 かきまわすにつれ、脂のように漂っていたものはこおろこおろと凝っていき、やがて海から矛を引きあげると、矛の先からしたたりおちた滴が、島となって地上ができた。
 
 日本の神話「古事記」は、こんなふうに世界が生まれた原初のようすを語る。かきまわしているうちに、こおろこおろと凝っていく様子が、妙に実感的だ。そのせいだろうか。物語だとはわかっていても、なぜか深く納得させられてしまう。
 日本に限らず、世界のどの民族もみな「はじまりの神話」を持っている。自分の住んでいるこの世界とは、いったいどのようなものなのか。そもそも、世界は、どのようにして生まれたのか。人は、そんなことを思わずにはいられない生き物のようだ。
 漠然と世界に投げ出された「自分」という生。どこからきたのか、どこへ行くのか、自分ではわからない。わかりようがない。わたしという者は、世界にとってどんな意味があるのか。世界が自分にとってどんな意味があるのか、世界と自分との関係はどうなっているのか。それを「物語」として他者と共有しない限り、人間は安心して生きていけないのかもしれない。だから「神話」を生みださずにはいられなかったのだろう。
世界の構造の物語
 
 世界の構造についても、古代の人々は考えずにはいられなかった。動物と人間。同等であるその存在の、なぜ動物の側が殺され、人間に食べられなければならないのか。その理解不能な不平等を解決するために、狩猟民族の多くは物語を紡いだ。「動物が肉や毛皮の贈り物を持って、喜んで人間に殺されにやってくる」という物語だ。
 この物語は、一見人間に都合のいい、身勝手な話に見える。
 しかし、その真実はもっと深い。「だから、動物を手厚く扱わなくてはいけない。贈り物をくれる者たちを、礼儀正しく迎え、感謝の心を忘れてはいけない。何一つ無駄にしてはいけない」と民話は語る。動物も植物も、その命を与えて人間を養ってくれるすべての者たちに、深い感謝を捧げ、必要以上にむさぼらないことを、物語は教えてくれる。それは、環境を乱さずに生きていく賢い知恵となり、人々に受け継がれてきた。
 スーパーマーケットでパック入りの肉を買うわたしたちは、日常のなかで、めったに「命を捧げてくれた動物への感謝の気持ち」を持つことはない。わたしたち現代人は、激しく分業化された日常を生きることで、実は古代人より、世界の全体像や根本が見えにくくなっているのかもしれない。ほんとうの意味での「丸ごとの世界」という物語を見失っているのかもしれない。
天変地異の物語
 
 稲妻や雷鳴。雨や風。太陽と月と星。世界のあらゆるものを、人々は物語にした。物語にすることで、わからない巨大な力を納得して、心のうちに収めることができた。
 恐ろしい天変地異。大地震や巨大な嵐の体験も、語り継がれ、いつしか物語になっていった。受けとめきれないほど衝撃的なことが起こると、人はそれに物語を付与しようと必死になる。大地震は、大地を支える巨大な亀が動いたため、津波は、海の神の怒りを買ったため。「物語」という柩に納めて、なんとか受容しようとするのだ。
 天変地異だけでなく、なにか強烈な恐ろしいことは、すべて物語になっていく。例えば熊に襲われて命を落とすとか、人が人を殺した恐ろしい記憶。そんなものは、形を変え、物語として語り継がれてきたのだ。
語らずにはいられないつらい記憶
 
 この「語らずにはいられない」ということは、実は古代人ばかりでなく、わたしたちも同じなのだ。1995年1月、6000人余りの命を奪った阪神淡路大震災が起きた。その年の3月には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。どちらも、人々の心に大きな傷と、やりきれない思いを残した。
 はじめは、だれも語ることさえできなかった。あまりに大きな災い、そこにあったはずの平凡だが穏やかな暮らしを、一瞬にして奪ってしまった理不尽な力を、どう捕らえていいのか、まさしく茫然自失だっただろう。
 語りたくない。けれど、語らなければ癒されない。何度も何度も語り、語りながら問い直し、また語りながら、少しずつその現実を受けいれていくしかない。なぜ、自分が、自分の大切な人が犠牲になったのか。問いかけても問いかけてもわからないその答えを探して、自分なりの物語を付与し、鎮魂していかなければならない。
人生のすべてが「物語」
 
 だいたいが、すべては「物語」だと、わたしは思う。目の前に、無意味に投げだされた世界の欠片。それをつなぎあわせて、自分にとっての意味を与え、自分の物語として生きていかない限り、人は納得してその人生を生きることができない。
 たとえば「どうして勉強をするの? なぜ、学校に行くの?」という素朴な疑問。「みんなが行くから」という、人々と共有の物語に易々と乗っかっていけるうちはいい。けれど、ひとたびつまづくと、そうはいかない。そこに自分なりの「ほんとうの意味=自分自身の物語」をみつけない限り、学校に行くことも、勉強をすることもできなくなってしまう。途方に暮れて、引きこもるほかなくなってしまう。
 当たり前の人生でさえ「自分にとっての物語」がいるのだ。「介護」という困難な事態に直面した人は、なおさら物語を必要とするだろう。それが、自分に襲いかかってきたものでも、また自分から仕事として飛びこんでいったものでも。








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