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生きなおしの物語を紡ぐ
II−1 生きなおしの風景
ケアする人のケア・サポートシステム研究委員会に寄せられた声から
 
 今日、1月31日にじいちゃんが肉体を離れたことをお父さんから聞きました。
 じいちゃんの肉体にはもうあえないけど、今はじいちゃんは私の心の中で生きています。これからどこに行くのもどんなときも一緒だね。声が聞けなかったり、一緒にきくやのまんじゅう食べながら昔話が出来ないのがさみしいけど、しょうがないか……。今はどこにいても、いつでもじいちゃんを感じることができるから大丈夫。じいちゃんの肉体がいないのになれるまでにだいぶ時間がかかりそうだけど、安心して新しい旅にでかけて下さい。今は目をとじて「じいちゃん」って呼んだらいつでも会えるもんね。私はそう感じます。じいちゃんと出会えてよかった。またね。
 
 これは、一緒に生活してきた「じいちゃん」が亡くなったときに、海外で学ぶ孫が「じいちゃんへ」と題して送った手紙の一部である。
 私たちは、親しい人の死に出会うと、その人がもうこの世界にいない、その人とはもう会って話すことができないという耐えがたい哀しみに直面する。しかし、私たちは、「肉体としてのその人」を喪失するが、それに代わって「その人との精神的なつながり」のある世界を見出すことができるのではないだろうか。
 「肉体がいないのにな(慣)れる」には時間がかかるが、それでも、時間をかけて、私たちは亡き人の肉体がいない世界を獲得していく。そして、この新しい世界のなかで、肉体的な生き死にを超えた新しい精神的つながりを紡いでいくことも、生きなおしのひとつの風景である。
 「生きなおし」とは、自分の成し遂げてきたことや、歩んできた道のりを、間違いだったと悔い改めてやりなおすことではない。ここでいう「生きなおし」とは、それまで当たり前だと思っていた世界を手放し、新しいものの見方、感じ方、考え方に気づいていくことである。
 そこで、ここでは、さまざまな人の生きなおしの風景から、セルフケアのサポートについて考えてみたい。
死別をとおして生きなおす
 
 「ケアする人のケア・サポートシステム研究委員会」が行った調査のなかでは、介護を担う家族や、仕事でケアに関わるホームヘルパーや施設職員、看護師などから、利用者や患者が亡くなったときの死別の哀しみやショックが語られた。たとえば、「目の前で利用者が亡くなることは、非常にショックです」という看護師の経験、「訪問に行ったときにすでに亡くなられていました」というホームヘルパーの経験などである。看護師をしていたある女性は次のように語る。
 
 看護婦として働いていたときには、利用者が亡くなる場面に何度か遭遇しました。自分の勤務のときに亡くなる人がいると非常にショックで、先輩から「あなたを選んで亡くなられたのよ」と慰められたこともあります。
 それでも、どうしても悔いが残ってしまう利用者もいます。「あのときこうしていればよかった」とか「違う方法をとるべきだったのではないか」と考え、看護婦としての判断や行為が間違っていたのではないかという後悔の念で落ち込みました。
 
 私たちは、このような哀しみや苦しみに対して、「早く元気にならなければ」あるいは「いつまでも哀しんでいてはいけないのではないか」と考えがちである。だが、死別の哀しみは、覆い隠したり、早く乗り越えなければならないというものではない。
 亡き人を偲び、悲哀を感じることは、その人との深い交流や信頼関係があったことを意味している。そして、その交流は、その人が亡くなった後もなお、形を変えて生きつづける。
 この看護師は、その後、自分自身の父親の看護と看取りを経験し、次のように話している。
 
 父の闘病生活とその後の一連の出来事は、私に生きることと死ぬことを考えるきっかけをくれました。父の体は無くなり、現実の生活のなかには存在しなくなり、残っているのは父が作ったものと、私たちの心のなかに残ることなのかなと思うようになりました。
 そう考えると、悔いが残る利用者というのは、いつまでも強く心に残るのです。決して忘れることはありません。その人が生きていた証と一緒に私は生きていく、それで良いのだと今は思っています。
 
 この看護師は、仕事をする傍ら、土鈴などの創作活動としての「ものづくり」に関わるようになり、「セルフケア」について次のように語っている。
 
 私の場合、セルフケアのひとつの方法は、「看護婦ではない自分」でいられる場所に身を置くことでした。
 ものづくりは私を「看護婦」ではない、ただの一個人でいさせてくれます。ものづくりにはまっているのは、それを商品として売る楽しさもあるからでしょう。しかし、趣味の域を超えた、道楽を見つけられたことはとても大きな前進でした。
 人はいくつもの役割をもつ方が良いのかもしれません。もつ役割は人によってさまざまだとは思います。だから、「遺跡を掘れる看護婦」とか「陶芸ができる介護士」とかそういうのが意外にいいのかもしれませんね。
病を得て生きなおす
 
 私たちは、日頃当たり前だと感じている「健康」を喪失したときにも、生き方の転換を迫られる。
 経済成長の副産物として、これまで考えられなかったさまざまな病が増えており、また、医療技術が発達する一方で、病とともに生きる時間が増えてきている。私たちは、病を治療して克服する努力をしながらも、病とともに生きていくことを受けいれ、その病と折りあっていくことが必要になることもある。
 私たちは病によって、生き死にに対峙することからも気づきや学びを得ることができる。
 ある30代の女性はやりがいのある仕事をもち、幅広い活動を手掛けていたが、数年前に乳がんを患った。
 
 私は、いろんなものをいっぱい身につけた人間でした。全国を行き来しながら、お金を儲けるにはどうしたらいいか、どうやったら成功するかといったことばかり考えて、食べることも寝ることもほとんどしないような生活になっていたと思います。そんなときの発病でした。
 それからは、身につけているものをどんどんはがしていきました。一番辛かったのは、手術が終わってからの生活の変化です。仕事も続けられないと宣言して、徐々に自分の関わる範囲を縮小していきました。夫と別居し、治療費や家族のためにお金もなくなり、本当に何もなくなってしまいました。でも、なくなってしまってやっと、もういいやと思えるようなところもあったような気がします。
 
 彼女は、それからしばらく家に閉じこもって、ひたすらうずくまっていたと言う。薬の副作用でうつ状態になったが、当時かかっていた病院は、それを聴いてもらえるような医療体制ではなかった。
 
 私が一番辛かったとき、夫もそばにいてくれない、何もかもなくして、そういうなかで、ある日「そうか、みんなそれぞれ違うんだ」と気づきました。
 みんなそれぞれ違うということを受け入れると、「すべてがOK」になってきたのです。そうすると、私の周りにあったカーテンがすーっと開いた、本当にカーテンが開いたっていう感じがしました。カーテンが開くと、実は、私は一人だと思っていたけれど、本当にたくさんの眼差しがこちらに差し伸べられていることに気づくことができました。
 
 この女性は、やがて自らの判断で主治医を変えることを決め、患者との対話を一緒に考えてくれる医師に出会う。そして、「今では病を「得た」と思っている」と言う。
 現在は、患者の話を聴く場の必要性から、治療のことではなく、解決のためではなく、とにかく話を聴く場を作ろうと、数人の仲間で取り組みを始めている。
 








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