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ケアに必要な3K
 
 「ケア」には寄りそうことと折りあうことが大事といわれています。つまり、生老病死という人間の不条理に向きあうために、人間としての知恵や感性が要求されるということです。
 私は「ケア」には、3Kが必要であると考えています。1つ目のKは感性のKです。これは直感的な能力であり、言葉を超えて相手の痛みや悲しみ、苦しみを感じとる力です。
 2つ目は教養のKです。教養とは、学識があるということではなく、「人の心をわかるこころを育てる」ということです。たとえば、詩や古典をとおして人間の生き死にを学び、生き死にについての深い知識を得ることで、その向こう側にある未来の人間性について考えていくということです。
 3つ目のKは技術です。この技術はテクニックではなく、アーツ(技法)です。たとえば病を患ったり、死に直面して揺れ動いている人たちの存在に寄りそっていくとき、「聴く力」や「対話する力」が必要です。また、「ケアする人のケア」のためには、さまざまな問題を背負い込んでイライラしている感情を分かちあうために、自分の意思を表明したり感情を表現したりする技法も必要になります。
 質の高いケアを提供し、ケアが豊かになっていくためには、「ケアする人のケア」が必要であり、また、そのためには、感性、教養、技術(アーツ)が必要であるということです。
少子高齢化とケアの制度化
 
 21世紀は「ケアの時代」といわれていますが、その背景のひとつに少子高齢化の問題があります。介護・介助の必要な人の増加に伴って、家族や地域がケアを担う時代になってきています。さらに、日本社会ではミクロからマクロまで、国、会社、地域、学校、家庭といった共同体が崩壊しつつあるといわれています。共同体は、人間が生きていくことを支え、生きる意味を与え、生きる価値を気づかせるものですが、これほど人間にとって重要な役割をもっている共同体が崩れつつあります。そして、共同体の支えをもたない「裸の個人」が、介護・介助といった現実の問題に直面しています。いま、そういった「裸の個人」が介護・介助をどう担っていけるのか、そして人と人との関わりをどう回復していけるのかが社会目標になっています。
 もうひとつは、ケアの制度化です。日本は長年めざしてきた福祉国家の道を、少子高齢化による財政負担の増大によって転換しようとしています。つまり、今までの福祉の考え方であった「ウェルフェア」から、「ウェルビーイング」への転換です。「ウェルビーイング」とは、一人ひとりの生き方を大事にするという意味があり、「個人の福祉」が重要になってくるということです。つまり、個人がどれだけ主体的に選択できる生き方の幅をもてるのかが大切になってくるのです。
 また、これに伴って、サービスが多様化し、介護にサービスという概念が入ってきています。サービスをそれぞれが選択していく時代になったということですが、その具体的な例が、介護保険の導入です。
 しかし、ここでもさまざまな問題が起こってきています。その間題のひとつは、これまで日本人は国の方針に従っていればいいという依存的な生き方をしてきたために、このような突然の変化に遭遇しても、どのように選択していったらいいのかわからないという点です。これからは主体的な生き方をしなくてはいけない時代、つまり、自分の人生を自分でデザインしなくてはならない時代になって、とまどいを感じているというのが実情ではないでしょうか。
 さらにはケアの制度化によって、人間の苦しみのすべてをすくいとることはできません。介護サービスといっても、きめ細かなサービスは不可能です。とりわけ、生きる苦しみや辛さといったメンタルな部分をすくいとることはできないのです。
ケアの企業化とケアのテクノロジー化
 
 こうした時代の変化に伴って、ケアの企業化が進んでいます。介護サービスがビジネスになると、公共性ばかりではなく、効率・収益が求められます。
 新しい公共の担い手として、さまざまなNPOが生まれています。とくに、福祉関係のNPOはたくさん生まれていますが、このようなNPOを担う人たちの多くは、かつてはボランティアでケアに関わっていた人たちです。こういった福祉NPOの人たちが今大きな矛盾をかかえています。
 たとえば、かつては独り暮らしの老人のところに行って、買い物に行ったり、話し相手をしたり、どこかに遊びに行ったりというサービスをしていたボランティアグループが、NPOになると、そのようなことばかりでは成り立たなくなります。きめ細かいサービスを放棄しなくてはならなくなり、人間関係についても、サービスをする側と受け取る側との関係がギスギスしてくることもあります。これは、企業化による悩みであるといえます。
 最後のひとつはケアのテクノロジー化の問題です。たとえば、電気ポットをシュッと押すと、それが電話につながっていて「あ、おばあちゃん生きてる」とわかるという安心ネットが、商品として出ています。また、癒し系ロボットや、ペット用ロボットなども出ています。先日も、背中をかいたり頭をなでたりすると、喜んだり怒ったりするアザラシ型ロボットがあると知って驚きました。さらに、食事介助までしてくれる介護ロボットもあるようです。
 しかし、ケアのなかにテクノロジーがどんどん入ってきたら、それで十分満たされるのかと考えてしまいます。つまり、人間にとって「ケア」とは何かという本質が問われる時代になったのです。
苦悩の孤立化・孤独化
 
 私たちが、とくに「ケアする人のケア」に注目したのは、それが必要だということを誰もが感じながら、忙しいという理由で、後回しにしてきたからです。ケアする人が肉体的にも精神的にも大きな負担をかかえており、その苦悩が孤立化、孤独化しているという現状に目を向けていく必要があると考えています。
 4月に参加した「アメリカ・アーツ・イン・ヘルスケア学会」においても、ケアする人(caregiver)をどう癒していくかについて議論しました。そこで、日米の共通のテーマとなったのが、アイソレーション(isolation)、つまり、孤立・孤独の問題でした。
 孤立というのは、人間関係の希薄化、つまり、つながりが分断されて孤立しているという状態のことです。
 では、孤独とはどういうことでしょうか。孤独の「孤」は、親を亡くした子どもの気持ちであり、「独」は、子を亡くした親の気持ちで、独りぼっちのやるせない気持ちを「孤独」というのだそうです。つまり、先ほど紹介した映画「コンタクト」の女性天文学者は親を亡くした子どもの気持ち、つまり「孤」です。そして、亡き父は子を亡くした親の気持ち、つまり「独」です。そして、孤独を癒すのはお互いの存在だということなのです。
 米国における「ケアする人」をめぐる問題には、「無力感」もあると思います。米国の社会システムは巨大で、たとえば病院は、何千人もの人たちが働いているので、病院そのものがひとつのコミュニティになっています。そのような大きな組織においては、医療者が一人ひとりどのような役割を果たしているのか、自分の役割にどのような意味があるのか、そういったことが実感できなくなってくるのです。
 ますます巨大化するシステムのなかで、このような孤独と無力感をどう癒し、満たすかが、「ケアする人」をめぐる問題として見えてきた課題です。
存在の肯定とねぎらい
 
 では孤立と孤独にさらされているケアする人を、どのようにサポートしていったらよいのでしょうか。
 そのひとつは、「存在を肯定する」ということです。「存在の肯定」とは、あなたは愛されている、あなたは許されている、あなたには価値があるということです。誰でも価値があり無価値な存在などない、ただ生きていることだけでも十分に尊いと思えることが、生きる原動力になるのです。
 そして、自分のことを尊いと感じることができるためには、やはり人間関係が大事です。とりわけ、喜怒哀楽という感情表現を受けとめる周りの姿勢、あるいは、感情を素直に表現できる環境が重要ではないかと思います。
 ふたつめは、精神的な活動に価値を与えることです。ケアする人に対して、ねぎらいや感謝、評価といったことが充分になされる必要があります。
 たとえば、「ごくろうさま」「ありがとう」「あなたのしていることはものすごくよかったよ」などとポンと声をかけられることによって、ケアする人の苦悩が消えてしまうことがよくあります。








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