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ケアをとらえなおす
悲しみを抱きしめて
こころを癒すケア
播磨 靖夫 HARIMA YASUO
弱くあることへの自由
 
 障害のある人たちの問題と関わって30年になります。新聞記者時代に取材を通じて介護・介助の苦悩を知ることになりました。ですから、ケアの現場を見つづけて30年ということになります。それはまた、ケアする人がケアされていない状況を見つづけて30年ということにもなります。
 これらを目のあたりにしながらフォローできなかった心の痛みがずっとありました。その痛みが「ケアする人のケア」を研究する動機となりました。
 障害のある人たちから学んだことのひとつは、弱くあることは決してマイナスではないということです。人間として別の強さをもつことができるということです。
 今年1月に、交通事故に遭って車いすの生活になった人と対談をする機会がありました。それまでは、マラソン選手として活躍していたのですが、車いすの生活を始めて、それまで目にもとまらなかったものが見えてきたと話していました。彼女は「道端の小さな花などにも美しさを感じる、自然や生命がいかに美しいかを感じる」と言います。そして、それらを絵画として発表している彼女は「個展をしてはじめて、家族の愛や、友だちや周りの人たちの思いやりがわかってきた」と話していました。
 ここに、実は「弱くあること」の意味があります。私たちは小さい頃から、強くあることがいいことだ、弱いことはマイナスだと思い込まされてきました。しかし、この話を聞くと、弱いことは決してマイナスだけではないことがわかります。「弱くあること」のなかには、私たちに多くの気づきを与えてくれるものがあるのです。
 私たちは「弱くあることへの自由」があってもいいのではないかと思います。人間の存在のあるがままを認め、人間は生きていること自体が尊いという価値観、すなわち、生きてあることに価値があるという新しい価値観を、「弱くあること」の意味から引き出せるのではないかと思います。
根源的な営みとしてのケア
 
 最近、大きな事件や事故、災害があると、「こころのケア」という言葉が新聞やテレビで出てきます。大阪教育大学付属池田小学校での痛ましい事件の際にも、子どもたちの「こころのケア」が必要だといわれてきました。また、日常生活のなかでも、スキンケアやヘアケアなど、肌の手入れとか髪の手入れという意味で使われ、「ケア」という言葉を耳にします。このように、ケアという言葉は一般的になってきました。
 「ケア」とは、一般的には、介護・介助ととらえられがちですが、本来は、存在に根ざした関わりであり、深く根源的な営みです。私たちは、「ケアする人のケア」の研究集会を東京と大阪で開きましたが、そこでは、哲学、倫理学、社会学、看護学などのさまざまな分野から研究者が集まり、「ケア」を論じました。それほど、「ケア」は広く根源的なものです。
 特定の職業や仕事に限らず、あらゆる人が日常のなかでケアを行っており、また、行うことができるものなのです。関わりを通じてお互いが少しでも幸福になる、その実践が「ケア」という営みだと考えています。
魂の触れあい
 
 数年前、ジョデイ・フォスターという有名な女優が主演した「コンタクト」(1997年)というアメリカのSF映画がありました。彼女が演じる女性天文学者が遠く離れた知的レベルの高い地球外生命と接触するストーリーです。
 この女性天文学者は、小さい頃からお父さんに育てられます。お父さんは、宇宙のすばらしさや天体のおもしろさを教え、彼女の宇宙への興味や好奇心をかきたててくれました。その愛するお父さんが突然死んでしまいます。しかし、主人公は、その悲しみをのりこえて、大きくなって天文学者になり、地球外生物の研究をするのです。
 そして、はるか向こうの星座から送られてくるシグナルをキャッチして、指定された方法で、その発信基地に行って出会ったのが、亡き父の姿をした地球外生命です。女性天文学者は、遠い旅路を旅して愛するお父さんと再会するのですが、その父は次のように言います。「孤独を癒すのはお互いの存在だ」。つまり、私たちの存在に根ざした関わりが孤独を癒すということです。
 この映画を見たとき、歌人の岡野弘彦さんの個人雑誌「うたげの座」にある祝詞を思い出しました。
 「現し世の縁は時の間なれども、世をへだつる心の縁ぞとこしへにあらむ」
 つまり、現実の縁は時に限りがあるが、「世をへだつる心の縁」は永遠であるという意味です。この歌のなかにある縁から生命について少し考えてみると、人間の生命には2つあるということです。そのひとつは生物学的生命です。この生物学的生命は、年を重ねていくと衰えます。また、そのつながりにも限りがあります。
 もうひとつが、精神的生命です。女性天文学者とその父親の縁は、世をへだてていますが永遠のつながりをもっています。愛するお父さんがいるという思いが、再会という奇跡を起こすのです。
 人間はかけがえのない存在だといいますが、「かけがえがない」ということは、一人ひとりに魂があるということです。そして、「ケア」とは、その魂が触れあう関わりであるといえます。
 私たちは、誰かのことが気になると、ひとりでに身体が動いてしまったり、その人が困っていれば放っておけなくなるということがあります。これは、知らず知らずのうちに、自分の魂をふるわせ、つき動かされるということではないでしょうか。
悲嘆を癒す営み
 
 今、大きなテーマになりつつあるのが、愛するものを失ったときの「喪の仕事」(mourning work)や「悲嘆の作業」(grief work)です。肉親や愛する者を失ったときに誰もが思うことは、よりよい死、納得できる死に、どれだけ自分が寄与できたかということです。「十分介助できなかったのではないか」「もっとこんなことをしてあげたら満足してさよならできたかもしれない」といった思いにとらわれます。失った者への悲嘆をどう癒していくかという問題に対しては、先ほどの言葉を借りれば、「世をへだつる心の縁」をどう結ぶかということにつながってきます。
 2002年4月に「アメリカ・アーツ・イン・ヘルスケア学会」の大会に参加し、それに合わせて、ケアに取り組む病院やNPOを視察し、アートを取り入れたケアの実践について情報交換をしてきました。
 ワシントンのジョージタウン・メディカルセンターのロンバーディがんセンターでは、病院の中がギャラリーのようになっていて、多くの作品が展示されていました。そのなかで感動した作品は、アーティストである男性が、がんを患った妻と一緒に、彼女の愛用していた日用品、スプーンやペンダントなどを用いて創ったメモリアルアートでした。
 この妻はすでにこの世の人ではありませんが、その作品はたいへん人を癒すということで、この病院だけではなく、全米各地で展示され、たいへん好評だったそうです。このような悲嘆を癒すために一緒に創るメモリアルアートが、なぜ他人である私たちを癒すのでしょうか。
 それは、私たちは、自分の生と誰か他の人の生との間に、「ケア」という関わりが成立していることに気づいたとき、自らの生が際立ち、輝いていくからではないかと思います。私たちはメモリアルアートをとおして、そのことに気づくことができるのではないでしょうか。
 日本では、悲嘆を癒す営みは、まだ個人のものになっており、社会化されてはいません。これからは、それをアートなどで表現する共同作業が必要になってくるのではないでしょうか。








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