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解剖学・口腔 解剖学実習を経験して
 北山 登紀子
 昨年まで貿易関係の会社で働いており今年の四月に学生になったばかりの私にとって、解剖学・口腔解剖学実習は今までのあらゆる人生経験と照らし合わせても想像がつかないものだった。動物解剖の経験もなく、身内以外のご遺体と対面するのも初めてであったからである。
 実習初日に老齢の男性であるご遺体に触れたときには表現しようのない緊張感から声が出なかった。私に人の体の解剖ができるのかという不安もあった。しかし徐々に不安は薄れていった。なぜならご遺体が生きている人間の体とはつながらない別の存在と思えたからである。私の向かいの席で解剖をする友人の手がきびきびと動くのに比べ、そこに横たわっている方には全く“生″の気配がなかったからだ。そう思うと冷静に実習に打ち込めた。また、同時にもしこの方が私の祖父だとしたら冷静に受けとめられるのだろうかとも考えた。それは少し想像しただけでもとても気持の整理が難しかった。そして人はその人とどう関わってきたかによって死の意味も大きく異なるのだと改めて感じた。
 ご遺体を遠い存在と思いながら実習を続けていたが、身近に感じるきっかけがあった。それは胸膜腔を開いたときだった。肺が表れたわけだが、左の肺が異様に小さく縮んでいた。先生の話だと、生前左の肺はほとんど機能しておらず、呼吸が苦しかったのではないかということだった。私はその話と、とても小さな左の肺を見て苦しそうに咳こんでいるその方のお姿が目に浮かんだ。階段の昇り降りは大変だったろうか、小走りくらいはできたのだろうかと、急にその方の日常生活を想像したくなった。そしてその方にもおそらく生前には私のような普通の生活があったのだろうと思った。生と死に大きな違いはあるけれど確実につながっているのだと実感した。またその一方で、簡単に死ぬことは本当にもったいないことだと思った。今までは可能性のある未来を断つという意味でもったいないと考えていたが、それだけではないと感じた。それは人の体は実に複雑な仕組みで成り立っており、大きな臓器から糸のように細い神経まで無駄なく配置されている。そこまで複雑化されているのに左の肺が機能を失うと右の肺がカバーするという一見単純な作業までこなしてしまうというのはどんなに高性能なコンピューターにも不可能なことだろう。それだけよくできている体を簡単に失ってしまうのは実にもったいないことに思えたからだ。
 私は今回の解剖学・口腔解剖学実習を通し、実習書に書かれていないことも多く学んだ気がする。それは全て献体して下さった方がいたところから始まっている。ご遺体とご遺族の方々に深く感謝したいと思う。








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