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教科書では学べないこと
 仲川 隆之
 振り返ってみると長いようで短い解剖実習でした。一回一回の実習時間での進度が速く、実習も週に二回から三回と間隔が短く、そしてなにより今までに経験したことのない実習であったため、予習復習のペースをつかむのに苦労しました。
 私達の班のご遺体は、他の班のご遺体に比べて体格がよい男性であったので、脂肪や結合組織を取り除くのは大変でしたが、筋肉が非常に発達しており、剖出した筋肉は実習書のように美しいものでした。メスやピンセットを使って深部へ解剖をすすめるにあたり、事前に学習し、そこにあることを期待していた神経が剖出できた時には、まさに実習書通りに広がる世界に感動しました。
 また、自分の予想とは異なる脈管や神経が出てきた時には、自分の予習のいたらなさを痛感したり、やはり体内も個人個人に差があるというごく当たり前の事実を再確認したりしました。
 教科書や講義で学んだことも、実際に目で見て、素手で触れてみて初めてわかることがたくさんありました。結合組織があんなにも硬いものとは思いませんでしたし、神経があんなにも強靭で静脈があんなにも薄く軟らかいものとは思いませんでした。特に熱心に解剖を進めて大腿動脈、大腿静脈、大腿神経をきれいに剖出できた時には、それぞれの組織が見事に動脈、静脈、神経の特徴を示していて感動しました。
 解剖実習を通して、特に感じたのは、私達が将来相手にするのは、実習書でも模型でもない、異なる一人一人の人間なのだということでした。今回の解剖実習で担当したご遺体がそれぞれ異なった特徴をもっていたことと同様に、患者さんも一人一人違います。私達はその患者さんを診るにあたり、片寄った先入観をもたず、自分の全ての知識を総動員して、正しい診断を下し、適切な処置をとらなければならないと思います。あいまいな知識しかなかったら、間違った診断をするかもしれませんし、柔軟な思考ができなかったら、一つの疾病に目を奪われるあまり、他の疾病を見落としてしまうかもしれません。もちろん、確かな技術を習得することも大事ですが、正しい診断を下し、適切な処置を選択できる目を持つことも技術の習得と同様に大切なことだと思います。
 解剖実習が他の講義と特に異なる点、それは目で見ることにとどまらない点だと思います。実際に手で触れて、鼻でにおいをかいで、教科書では得ることのできない情報を得ることができました。ご遺体は骨学、筋学、神経学などさまざまな分野の情報を与えてくれる教科書でありました。その情報量は、学ぼう、観ようとする意欲に比例して、限りない情報を提供してくれました。
 また、解剖実習は、非常に多くの人の理解と協力の上に成り立っているということも大きな特徴だと思います。医療の進歩を願って自らの身体を提供しようとする故人の意志はもちろんのこと、その家族の理解を得ること無しには成り立ちません。自分の身体を提供するということは並み大抵のことではないはずです。私達がひと班五、六人という少人数で解剖を行うことができる背景に、多くの人々の理解と願いとがあることを感じました。
 このような方々に対して、私達ができる一番の恩返しは、解剖実習で学んだこと、そして感じることのできたたくさんの協力者たちの気持ちを忘れずに、立派な歯科医になることだと思います。これから歯科医になるまで、そして歯科医になってからも多くの課題や困難があることでしょう。自分が立派な歯科医になろうとする意欲を失いかけた時、今回の解剖で得たものは、きっとそれらの壁を打ち破る糧となることでしょう。今のこの気持ちを大切にして、実習で得たものを今後に生かし、立派な歯科医を目指します。ありがとうございました。








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