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解剖学実習を終えて
 鈴木 直子
 今、三か月間の解剖学実習の締めくくりとしてこうして感想文を書こうとしていますが、正直なところ、この三か月間に感じた様々なことが一気に押し寄せてきて、何から書けば良いのか分からず、少し混乱した状態でペンを執っています。
 初めて御遺体と対面した日、御遺体を覆っているカバーを取るまでは、湧きあがってくる恐怖心を押し殺すのに必死でした。覚悟を決めていたはずなのに、いざ解剖台の前に立つと、まだ見たことのない「死体」への恐怖と自分がこれからしようとしている「解剖」という行為の責任の重さに潰されてしまいそうでした。しかし、カバーを取って御遺体の安らかな御顔を見た瞬間、「何て安らかで、静かなんだろう」とその何もかもを超越した静けさに圧倒されました。その時から、恐怖心は不思議と消え、御遺体−Kさんは私の中でその身体に魂を持った「第5の班員」として映るようになったのです。
 Kさんは、いつも解剖台に静かに横たわっていましたが、本当にいろいろなことを私達に語り、教えてくれました。以前読んだ本の中で、「人は皮膚を一枚剥いでしまうと、皆同じに見え、個性などは消えてしまう」といったことが書かれていましたが、実際に解剖を進めていくと、それはある意味では正しく、またある意味では間違いだと感じるようになりました。確かに、基本的な構造は教科書に書いてある通りですが、一人一人の顔や体型が違うように筋肉や内臓の色、厚さ、血管や神経の走行の仕方など、体の内側にも個性があることが私には嬉しく、人体の不思議さにますます引きこまれました。そして、破格を見つけるという作業は、私にとってKさんの個性を見つけるということに等しく、その破格は私達へのKさんからのメッセージに思えたのです。
 また、人体の構造の緻密さ、精巧さなど教科書では平面的にしか分からないことも、Kさんに立体的で美しい人体の姿として見せて頂きました。特に驚いたのは、人体の構造に無駄なものは何一つないということです。筋肉にあいたほんの小さな穴や、骨のちょっとした窪みも、血管や神経が走ったり腱が通るためにあるという普通のことも、私には奇跡的なことに思えました。だから解剖中は毎日が発見と感動の連続で、こうして解剖をさせて頂くことに、不謹慎かもしれませんが喜びを感じていました。
 さらにKさんは、私に人体に関する知識だけでなく、私の本当の姿や、これからのあるべき姿まで教えてくれました。実習の作業に行き詰まり、一人で解剖台の前に立つと、否応なく弱い自分を見せつけられたような気がしました。しかし、弱い自分を直視することによって逆に、尊い意志を持って私達に御遺体を提供して下さったKさんのお気持ちを裏切ってはならない。もっと強くなってKさんをはじめとする多くの方々の期待に応えるべく良い医師、良い人間にならなくてはいけない、と自分を奮い立たせることができたのです。こうしてかけがえのない様々なことを教えて下さったKさんは阿部先生のおっしゃった通り「第5の班員」でもあり、「先生」でもありました。
 最後になりましたが、解剖学第一講座の先生方、班員の皆さん、多くの私を支えて下さった方々、本当にありがとうございました。皆さんがいたからこそ、三か月の実習を乗り越えることができました。
 そしてKさん、大切な御身体を私達に提供して下さって本当に感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。この解剖実習が私にとって医師としての出発点です。その出発点でKさんに出会えたことを幸せに思います。Kさんの尊い御遺志に報いることができるよう、良い医師になります。どうかこれからも見守っていて下さい。








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