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海の文学への旅 第19話 与謝野晶子II〜愛に生き愛に殉じた生涯〜
尾島 政雄(おじま まさお)
岡安 孝男(おかやす たかお)画
●晶子にみる“明治の女”
 すべてのしがらみを棄て、家出同然に与謝野鉄幹(寛)のもとに走った晶子は、寛を文字通り全身全霊で愛してゆきます。晶子にとって寛は尊敬すべき師であり、同時に愛すべき夫なのです。だからこそ、晶子の感受性は全開の花とひらき、二人の愛の姿を描く佳歌が堰を切ったように誕生してゆくのです。
 結婚の翌年には長男光(ひかる)をもうけ、そのあとも次々に子を産み(晶子は二十四歳から四十一歳の十七年間で十三人の子を産みます)、生活のこと育児のことに追われていたはずですが、華麗な寛との愛の交情を綴る歌の数々には、そんな生活臭い匂いはみじんも感じられません。ただひたすら二人の愛の世界へとのめりこんでゆく晶子の姿があるだけです。
 
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪
  かつおもひみだれおもひみだるる
春みじかし何に不滅(ふめつ)の命ぞと
  ちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ  (「みだれ髪」)
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 寛のあるところには晶子があり、そして晶子のあるところには必ず寛の姿があったのです。これは終生変らぬ風景でした。晶子の歌が評判になると共に、全国の講演・句会に出る機会も多くなるのですが、そこには常に二人の姿があったのです。
 
鎌倉の由比が浜辺の松もきけ
  君とわれとは相おもふ人  (「佐保姫」)
 
 寛・晶子の末の愛娘藤子さんによれば、家庭では二人は同じ机に向き合って座り、お互い声を掛合いながら歌の添削をし合っていたそうです。晶子は常に常に下手に出て寛を立てていました。この態度は晶子が女流歌人の第一人者として有名になっても変わりませんでした。そして家事に育児にと忙しく動き回り、子供たちは晶子がいつ起きいつ寝たのか見たことがなかったそうです。私たちは、その姿に“明治の女”をみるのでした。
●仏蘭西の野は火の色す
 時代は大きく変わりました。夢を追う浪漫主義をかかげて歌壇に一大変革をもたらした鉄幹主宰の雑誌「明星」は折からの自然主義に押されて退潮の一途をたどり、百号をもってついに廃刊の憂き目に合います。鉄幹は明治三十九年には鉄幹の号も棄て以後本名の寛で通し、精神的に失意のどん底におちいります。
 晶子はそんな寛をなんとか昔日の寛に戻ってほしいと願います。“そうだ、パリに留学してフランスの詩を学んでもらおう”そして寛に新しいエネルギーを持ってもらおう!
 懸命に留学資金を調達し、明治四十五年初頭、寛を勇躍パリに送り出します。
 さて新しい展望を祈って夫を送ったものの、残された晶子は夫のいない淋しさに堪えることが出来ません。初めて離れ離れになる寛と晶子。その年の五月晶子は矢も盾もたまらず単身パリの寛のもとに走ります。
 日本海を超えてシベリア鉄道でモスクワそしてパリへ、二週間の長い旅路です。
 
わが泣けば露西亜(ロシヤ)少女来て肩なでぬ
  アリヨル号の白き船室  (「夏より秋へ」)
 
 なにしろ九十年前の女ひとりのヨーロッパ行きです。胸も押しつぶされるほど不安で孤独な旅路だったことでしょう。しかし、あこがれのパリには愛する寛が待っている!
 
ああ皐月(さつき)仏蘭西の野は火の色す
  君も雛罌栗(コクリコ)われも雛罌栗
 
 パリで大彫刻家ロダンの知遇を得た晶子はその時妊っていたのですが、帰国後(十月)誕生した四男にロダンの名オーギュストを名付けたのは有名なエピソードです。
 二人の愛はパリを契機にますます深まってゆくのです。
 
遠方(をちかた)の山ほととぎす波白き
  海の底にて啼くかとぞ思う  (「火の鳥」)
 
君と在るくれなゐ丸の甲板も
  須磨も明石も薄雪ぞ降る  (「太陽と薔薇」)
 
 そして晶子はそのあり余る情熱を「源氏物語」の現代語訳にぶつけます。「源氏」五十四帖の訳の冒頭は晶子の歌で飾られます。「須磨の巻」では都を離れて須磨に身を隠す光源氏の心情に思いをはせます。
 
人恋ふる涙と忘れ大海(おほうみ)へ
  引かれ行くべき身かと思ひぬ  (「須磨」)
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●佐渡に一人うづくまる弟子
 不幸は突然に襲ってきます。こよなく愛しそして愛された寛の死です。昭和十年二月、伊豆の旅先きでこじらせた風邪がもとで、三月それこそアッという間の死出の旅立でした。六十四歳の春でした。
 
筆硯煙草を子等は棺に入る
  名のりがたかり我れを愛(め)できと
 
 夫である寛はまた永遠の恋人でもあるのです。その寛の棺になによりも入りたいのは晶子自身なのだと慟哭する晶子です。
 
 寛の死後晶子は関東大震災で喪った「源氏」の訳業に命を懸けます。昭和十四年晶子畢生の「新訳源氏物語」は完成します。震災以降十六年の成果でした。
 しかし晶子に残された余命はあまりありません。昭和十五年の脳出血のあと、昭和十七年五月二十九日寛のもとへと旅立ちました。六十四歳、バラの香かおる五月(高村光太郎の弔詩)でした。死後高弟たちが晶子の遺歌をまとめました。二千六百首を収めた大歌集「白桜集」です。そこには晶子の思いがぎっしりと詰まっているのです。
 
亡き後の哀れの中に思ひやる
  佐渡に一人のうづくまる弟子
旅はせじ海も浅葱(あさぎ)の羽二重を着て
  目をとぢし君に見えまし  (「白桜集」)
 
 晶子が最後まで海の彼方に見たものは最愛の夫寛のおもかげだったのでしょうか。 (第十九話終)








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