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マラッカの灯り
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シンガポール 日本船員センター 金子 昭治
はじめに
 わが国の海運にとって大事なマラッカ海峡には、本船航路を示す五〇基あまりの航路標識が設置されています。
 標識の設置までには、航洋船の運航に深いかかわりをもつ水深測量、海水の上下、水平方向の運動すなわち潮流潮汐調査を行い、底質を調べ障害物を取り除き航路が生まれます。
 船の道に灯りを点じ、航路や障害物を示して安全に航行できるよう導きます。
 その成果が海峡両岸の位置を調整したうえで基本海図として刊行されています。
 船の安全な航行は、気象海象を含む物理的な地形地物ばかりではなく人為的な通航規則、交通量、海難や汚染の情況はたまた海賊問題まで多岐にわたります。
 これらの航路整備は、一九六八年から、マラッカ海峡協議会が日本財団など百億円をこえる資金援助を受けて運輸省、海上保安庁の指導のもと今日なお継続中であります。
タンジュンギャバン灯標
 インド洋から長い険しい航海をおえ、漏斗型にひらくマラッカ海峡に入ります。
 狭く、速く、浅いと云われ大型船には難所と恐れられるこの海峡の初認標識が、ワンファゾムバンク灯台で、次いで見えるのが約三〇カイリ東南東に走った所にギャバン岬があって、沖合数百メートルに灯標があります。
 いまから二十数年前私はこの海峡で航路整備の仕事につき、最初の仕事がこの灯標建設で腰を抜かさんばかりに驚きました。
 私は航海科出身で船を走らす専門家ですが、海上構造物の建設など夢にも思ったことはなく、途方に暮れていたところ「船乗りのための仕事を船乗りがやる。頑張って下さい」の声に送り出され勇躍?当時の日航新鋭機DC8でマレーシアにやってきました。
灯標の建設
 シンガポールからジョホール水道を挟んで対岸のマレーシア造船所においてある資材の検査と積込みが最初の仕事で、折から乾期の真っ盛り、広場に満ちた油と鉄の臭いで体の血がさび色に変わる思いをしました。
 検査官らしき顔をして、図面の風力記号のような矢印が点溶接か両面溶接なのかは現物を見てからの逆知識で知り、巻いた鉄管、プラットホームそしてタワーの中を、大汗をかきながら潜り込み、外からの放水のシミを見付けるため血眼になりました。
 ハシケに積込み、うなる起重機の下で、ラッシングのターンバックルを回しながら数を改めていると、二隻のタグが両舷から抱くように近付き、もやい綱をとるやいなや岸壁から離しはじめたので、世話になった人たちに手を振るのがやっとでした。
 支柱に使う二五メートル鋼管二〇数本と、これを打ち込むガイドとして四脚の巨大なジャケットを山積みした千トンクレーン船、これを引くタグ、十数人が生活できるアコモデイシヨンボート、交通艇の四隻が船団をくみ、静かにジョホール水道を南下しマラッカ海峡に入りました。
 一昼夜の重い航海があけると、タンジョン(岬の意)ギャバンに到着し、水深六メートル付近に船固めを終え、二基の測量台を仮設し天候の崩れないうちに位置測定を開始しました。
 位置決めが済み、コアーをとり底質を調べてみると軟泥層が意外に厚く、砂やこいしまで相当深いことが分かり、二本繋ぎ五〇メートルの支柱が止まるかどうか心配になりましたが、工事進行中に不幸にも当たってしまいました。
 千トンクレーンは巨大なものですが、二五メートル鋼管を垂直にジャケットに差し込むため甲板上の高さを必要とし、五人の現地作業員が寝泊りしてクレーンの操作に当たっています。
 アコモデイションボートには、深田サルベージ社の社員が泊り、専門的な工事はやってくれましたが、重要な岐路に立たされるとその判断を私に持ち込まれるのには閉口しました。
ラジフ技師
 マレーシア政府からは、大学を卒業したばかりの新進気鋭で敬けんな回教徒ラジフ技師が来船し一緒に仕事をすることになりました。
 最初私は冷房完備で日本食を食べられる快適なアコモデイションボートで寝起きしていましたが、ラジフ技師がこのボートに寄り付かないのです。
 一九七三年私がインドネシア専門家派遣第一号として先達に教え込まれた華僑と回教のことがひらめき、朝パンにハムを挟んだり、夕に豚汁を食べたりする皆の部屋に入らず、独りクレン船に留まるモスリムのラジフ技師に気付きました。
 クレーン船は昼間焼けただれた外板が夜になっても脳味噌がたぎるほど熱く、天井に海水をまいて室温を四〇度近くに下げ、酒を口に含んでやっと夢が見られる毎日でした。
 朝食堂に下りると、堅い長椅子に二人向き合い「スラマットパギ(お早よう)」と言葉を交わし、机上におかれた竹ざるの新聞紙をはぐと、むっと臭うタイ米からもみを取り除く作業を始め、唐辛子と岩塩をトマトで練った味付けをまぶして、野菜汁で黙々と食べるのが一日のはじまりです。
 昼と夜の食事には、作業中流しておいた針に掛かった魚の油揚げが食膳に上れば二人でにっこりです。
 幸いインドネシア駐在で覚えたマレー語が役に立ち、仕事を終えると夜遅くまで人生?を語るまでもなく在り来りの世間話を楽しみましたが、何よりも同じものを食べ同じ鉄板の下で寝起きしたことが、彼の口からマレーシアの人達に好意的に伝わり、広く友達が得られ、また彼との友情も三十年この方続いています。
 本来はインドネシアに長く駐在し、仕事ばかりではなくそこで私的に多くの人達を知りましたが、一つ言葉を知ると一人友達が増えるようで、辛いものでも指を使い共に食べ、好き嫌いの無いことが人見知りせず沢山の友を得ることを知りました。
 日本でも外国でも対人関係がうまくいけばそこが”都”になり安住できます。
 いうまでもなく宗教を尊重することは必須条件で事の善悪、道徳律まで生活の規範になっています。
工事の終期
 横道にそれましたが、素人監督と新米技師ですから工事は難航し、鋼管の打ち込みが深くシルト層に当たっても、三トン重錘の侵入が五センチを超えて止まらず、パイルの追加を日本の商社に頭を下げ回りましたが、ロット(百本)単位でなければ受けてもらえず、工期が延びることを覚悟して外注し間に合わせました。
 支柱を支えるジャケットは、最初海底に座っていましたが流れが強くスコーリング現象で泥がV字に掘られて浮き上がり、支柱で持ち上げる形になり足が浮いてしまいました。
 憩流時に青い海が、転流が始まると雲の影のような茶色の固まりがたくさん浮き上がり、やがて互いにくっつき合って流れの最強時には一面泥の海になります。この砂の流れが鋼管に塗ったエポキシ系塗料をはがしピッカピカにしてしまいます。
 防錆のために亜鉛板の取り付けを考え、上架している船の舵面に両面三個ずつZAPが張りついていることを思い出し、水面下の支柱に四個ずつ計一六個購入しようと首都クアラルンプールに出掛けました。








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