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◎4 戦時の記憶◎
1 赤紙召集―南京と上海
 飛弾野は昭和10(1935)年の兵役による入隊を含めると3度の軍隊生活を送った。2度目は昭和13(1938)年から2年間、3度目は昭和1 9(1944)年から翌年8月終戦までの1年半。いずれも赤紙による召集である。
 2度目の召集では、新兵の教育係や兵士の配属係となり、昭和13(1938)年8月、180人の部隊を派遣交代要員として引率し、補給する弾薬なども積み、中国に向かう。船は3500トン級の貨物船リバプール号。大阪を出航し、上海の河口から長江を上り、8月25日南京に到着。その後、武昌と南昌で部隊を引き渡し、漢口を回って任務は終わる。だが、帰路の手段が予定されていたり、すぐあるわけでもなかった。飛弾野は南京と上海にそれぞれ半月間滞在し、10月末、貨物船に乗るよう突然指示を受ける。時化続きの玄界灘の船上で、強い船酔いにのたうち回って11月、ようやく帰国する。
 上海で帰国の指示を受けたとき、飛弾野は中国滞在中に撮ったフィルムを現像する必要に迫られた。未現像のフィルムは有無をいわさず憲兵に没収されてしまう。どこで現像しようか。そうだ、兵站の裏に物置がある。飛弾野は夜になるのを待った。バケツに水をいっぱい汲み、ラーメン丼をふたつ持ち物置に向かった。ふたつの丼に現像液と定着液を溶かし、それを現像皿にする。自分のやりつけた勘で現像を進め、定着が済んだフィルムをバケツに放り込む。また次のフィルムを出しては現像をくりかえす。真っ暗ななかで全ての現像が終わった。やがて夜があけ、バケツの水の中で現像済みのフィルム6本が、まるで密生して佇む昆布のように見えた。うまくいったと思った。ところが北海道よりも上海は気温が高いことを飛弾野はすっかり忘れていた。ネガは高温によって現像過度になってしまった。不出来ではあったが、飛弾野には満足だった。
2 終戦−沖縄が占領された頃
 3度目の召集は昭和19(1944)年2月。5月に歩兵隊第百連隊という新しい部隊が編成され、この時も初年兵の教育係として配属された。翌昭和20(1945)年6月、部隊が転進するという命令が出た。全て機密だからどこへ行くのか全くわからない。ミステリー列車のような軍用列車に部隊全員が乗せられた。沖縄じゃないか、という噂もあった。同乗した中に無線係もいた。彼らが暗号電報を傍受するが、どうやら仙台らしい。ところが列車は仙台を通り越した。東京に着いたら、そこは大空襲だった。列車は全ての窓のシャッターをおろし、隠れるように逃げて山の中で一晩停車した。夜が明け、ノロノロと出発する。そのうちに関門トンネルを越えた。やはり噂通り、沖縄らしい。そして何時間か走ったあとに列車は止まった。ここで降りろと言われ、降りたのが川内。ここにもセンダイがあった。暗号傍受は正しかった。
 川内からは鹿児島に移動し沿岸警備にあたる。部隊本部は小学校校舎を使っていた。校舎のため風呂がなく、近くの民家の畑にあった五右衛門風呂を借りていた。その家には飛弾野の長女・民子と同じ年の少女がいた。名を尋ねると田鶴子だと言った。飛弾野は民子をみつめるように、その少女の写真を撮った。
飛弾野さんの母親ヤイさんと長女民子さん
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 B29が編隊で、まるで定期便のように毎日やって来る。どうやら偵察しているらしい。1週間後には低空飛行でやって来ては50キロ爆弾を落として行く。狙うのは橋ばかり。鹿児島には高射砲が1基あり、専任の部隊もあったが、反撃して狙われる方が恐ろしい。飛弾野らは、ただ指をくわえて見ているだけだった。焼夷弾による1回目の空襲があった。駅だけが残った。2回目の空襲で鹿児島は全滅した。
 8月15日は九州全土一斉射撃の日として反撃することになっていた。当日になると、玉音放送があるから集合せよ、といわれる。雑音がひどくて全く聞き取れない。激励の言葉なのだと、飛弾野は思った。夕方になって、日本が無条件降伏をしたと知った。
3 母−お守りと刀
 飛弾野は中国に行った時から、母に持たされたものが2つある。ひとつは西南の役に出陣した祖父・平吉が持っていたお守りである。平吉の軍隊手帳もあったが、それはずっと以前にネズミにかじられたという。もうひとつは、母がどのように用立てしたのかわからないが、出征時に買ってくれた備前ものの日本刀である。
母が買ってくれた日本刀を持つ飛弾野さん(昭和14年頃)
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 銃や刀は没収されると聞いた。これは母からもらった大切なもの。没収されたら母に申し訳ない。見つからぬよう、刀を藁や筵に包んで、鹿児島から北海道東川への帰路についた。この刀は現在も飛弾野の自宅の床の間に飾られている。帰り道にどのような苦難があったかは知らぬが、飛弾野ともども無事帰郷できたことは確かだ。
 母ヤイは、その後99歳と四ヶ月の天寿を全うし、平成5(1993)年永眠した。町長の山田は懸案となっていた″数えで100歳となる町民を讃える条例″を緊急に決議し、霊前にそれを顕彰した。また、山田によれば、町内にも飛弾野ほどの母想いの人物はおらず、ヤイが亡くなるまで、飛弾野は添い寝するように看病していたという。
 飛弾野の命名の元となった忠臣蔵の不破数右衛門の話の中に次のような下りがある。数右衛門は母との最後の面会で、討ち入りの時には共に行きたいという母の心情を聞かされ、母の下着で襦袢につくりなおしたものを渡された。数右衛門は討ち入りの夜、その願いを叶えるため、鎧の下に母の襦袢をつけて出陣した。
 子供の時から「母が喜ぶなら、母の決めたことには、いつも従った」といっていた飛弾野。逸話が多い不破数右衛門と飛弾野との類似点を探すとすれば、この母想いのところだけかも知れない。








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