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自然と文化 第68号(ぼくの日記帳は、カメラだった。)

 事業名 観光資源の調査及び保護思想の普及高揚
 団体名 日本観光振興協会 注目度注目度5


◎3 東川ニュース◎
1 映画機材−好井の決断
 昭和11(1936)年、好井は再び請われ助役となる。当時「納税普及映画会」といって、納税の説明などと併せて映画会を行うと人が集まり、大いに成果をあげていた。それが役場内でも話題になり、各課の主任たちも映画を上映して啓蒙をはかりたいと希望し、意見はひとつにまとまっていた。
 映写機は当時300円以上と高価である。主任クラスの意見がまとまっても予算を捻出するのは困難だった。そこで、好井に可愛がられていた飛弾野に「お前、助役の好井さんにうまく話せ」とお鉢がまわる。役場職員は村会議員が任免する村長よりも、実務で采配を振るう助役に信頼と期待を寄せていた。
 飛弾野は早速、好井に話を持ちかける。ところが、「保険の外交員と電話と活動写真というものを俺は大嫌いだ」という返事だった。大嫌いじゃ話にならない。それをみんなに伝えた。すると、納税組合や衛生組合などの団体がお金を出し合って100円程の資金の目処がついたという。そこで改めて好井に進言した。好井は自慢の髭を手で捻っては引っ張ったりして、最後に「そうか。みんながそう言うんなら、なんとかしよう」。
 その一年後、飛弾野は好井に声をかけられた。「上映会は人気があるようだが、アレを撮る機械はないのか」。あるにはあるが、撮影機に300円以上はかかる。しかし、村の行事や村民を撮って上映すれば、もっと喜ばれて人気はあがるし、村の記録にもなると飛弾野は伝えた。すると、好井は言った。「お前、早く買ってこい」。
 撮影機が届くと未撮影の100フィート・フィルムが数本、サービスで付いてきた。「まず最初にお髭の助役を撮らんきゃいかん」と仲間の意見が一致した。たまたまその頃、東旭川で近郊市町村の首長たちが参列する村葬があった。村長の都合がつかず、好井が代理で参列する。その朝、飛弾野は撮影機を抱え好井の自宅へ押しかけた。そこにフロックコート姿の好井がいた。「今初めて撮るんだから、ちょっと玄関に立って下さい」と飛弾野は伝え、出発前の好井の姿を撮影した。
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昭和12年頃、東川ニュース(16ミリ)を撮る飛弾野さん
2 映画撮影−昼休みの祝宴
 数日後、好井に「あれ、まだできんのか」と尋ねられた。大嫌いな活動写真を好きになったのかも知れない。一週間後の朝、現像済みのフィルムが届いた。飛弾野は早く撮影結果を見たかった。窓がなく、光の入らない当直室で試写することにした。「昼休みに、助役さんの写っている映画をやるから見に来てくれ」と仲間たちに伝える。するとゾロゾロと12、3人が集まってきた。そのなかには助役の好井もいた。飛弾野の心臓は高鳴った。どうか、うまく写っていますように…。
 宿直室の電灯が消され、映写機がカタコト音を立てて回り始める。レンズからチラチラと光が蠢き、ポスターの裏側で急ごしらえした銀幕に飛弾野が撮影したはじめての映画が映し出された。「おお、これはいいもんだな」と好井の声が聞こえた。上映が終わると好井はポケットから名刺を出し、「コレを持って雑貨屋に行ってこい」と飛弾野に渡した。上気した飛弾野は名刺の裏を見た。「本券持参の者に酒一升お渡し下されたく候。助役好井」。大急ぎで役場を飛び出し、一升瓶を下げて戻ってきた。茶碗を並べて酒が注がれる。「今日は助役の奢りか。こりゃたいしたもんだ。飛弾野の活動写真がこんなによかったんだなあ」と仲間たちはよろこび、助役お墨付きの祝宴がはじまる。役場の昼休み時間はとうに過ぎていた。
 こうしてはじまった、飛弾野監督兼カメラマン、編集による16ミリ映画「東川ニュース」は、戦時に中断することもあったが、昭和11年から昭和30年代まで続き、30巻以上が制作された。そして、その映画のスチール記録のように、飛弾野は並行して写真を撮り続けた。映画制作や上映には、役場職員や村内の有望な青年たちをプロデューサー、スタッフ、字幕タイトル描き、さらには上映時の活弁士として巻き込んでいった。映画も独学であるが、技術書や専門書を読むこともなく指導した。当然ながら、飛弾野は役場にいて映画制作や写真撮影を職務としていたわけではない。あくまでも本務は、工営課の仕事である。
 「いろんな行事があると行って映してね。東川ニュースだけでは足りないから、劇映画やマンガ映画を借りて学校や町内会を回って映していました。そしたら、″うちの父ちゃん出た、母ちゃん出た″って子供らがワイワイ騒いで、大した人気あったんです」。
3 上映会−タコ部屋慰問
 飛弾野はみんなが喜ぶことをするのが好きだった。映写機を担いでいって上映会をすることも、撮影と同じくらい好きだった。電気のないところには発電機も持参した。
 戦前、中国人、韓国・朝鮮人を強制労働させる、いわゆる″タコ部屋″が北海道内の各地にあった。東川の忠別川上流にある発電所もタコ部屋の労働によって建設された。飛弾野は彼らを気のどくに思った。そうだ、映画を持って慰問しよう。この提案に、兵事係の窪田與作は活弁士として同行したいという。役場では収入役という要職にある園田規矩もレコード・伴奏係を申し出た。三人は機材類や二時間分のフィルム、スクリーンを担いでタコ部屋を訪ねた。
 当時、発電所の工事は沢組、荒井組の2社が仕切っていた。飯場、と呼ばれるタコ部屋をまわり、会場を移しながら1日3回の上映を2日間泊まりがけで行う。用意したフィルムはどこでも人気を博した忠臣蔵や現代劇だった。ところが、弁士の窪田が熱弁を奮い、園田が音響で盛り上げても全く反応がない。自分たちと同じ顔をしているが、彼らには言葉も通じない。活弁も空しい。文化が違えば、日本人にとっては感動的な忠臣蔵も、意味がない。3人は気落ちして飯場を後にするが、諦めたわけではない。再び慰問に行く。今度は漫画映画ばかりを借りてきた。会場は笑いと喝采で揺れた。
 さすがの飛弾野もタコ部屋の写真を撮ることははばかられた。一本の丸太を枕に、寿司詰め状態で寝かされている強制労働者。そこはシラミの巣窟でもあった。シラミは彼らの襦袢の襟に列をなして歩いていた。暗く沈んだ眼、眼、眼、・眼、、、。お代わりが出来る汁だけを競うように先に口に入れる異様な食事風景。写真に撮らずとも飛弾野の記憶に焼き付く。
 歴史的な記述では、タコ部屋には強制連行された中国人労働者と国内の犯罪収容者しかいなかったことになっている。しかし、飛弾野は韓国・朝鮮人もたくさんいたという。この点を山田孝夫・現東川町長に聞いてみた。「当時、韓国・朝鮮人は皆、強制的に日本名に創氏改名されました。だから、記録として中国人名と日本人名しか残っていないのではないでしょうか。強制連行された韓国・朝鮮のかたがたも確かに多数おられた、と僕個人は認識しています」と語る。
 好井萬二郎が昭和14(1939)年、永眠。上映会ではレコード・伴奏係をしていた収入役の園田が好井の後任となる。








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更新日: 2017年10月21日

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