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◎5 戦後の日々◎
1 公職追放−人々の好意
 帰郷した飛弾野は戦前と同じ工営課長として復職する。ところが昭和22(1947)年、GHQから公職追放を受ける。在郷軍人会の分会長の任に1年間就いたことがその理由だった。戦犯にA級、B級といったランク付けがあるように、公職追放者も同じようにランクがある。飛弾野は最下位のG級だった。
 しばらく非職員として在席するが、昭和25(1950)年3月に失職する。無職となった飛弾野は農協の組合長・佐崎清市から声をかけられた。佐崎の好意に甘え、農協の臨時職員としてレンガづくりの穀物倉庫の設計にとりかかる。一方、公職追放についての異議申し立てを和英両文で書き、提出すると処分が解除されることもある、という話を耳にする。飛弾野は農地委員会に勤務している藤田馨に、英文の異議申立書の代筆を依頼した。藤田は早稲田大学を卒業した、東川きってのインテリだった。その甲斐あって同年10月に公職追放を解除された。すぐに役場に復職するようにと村長からも強く求められるが、手掛けている倉庫の設計が終わるまで待ってもらうことにした。設計書を完成させ、元の工営課長として復職する。また、英文代筆をした藤田は衆望を集め、村長選挙に立候補。翌年4月、村長になる。
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終戦間近、鹿児島で撮影した少女。戦後再会を果たし、現在も文通が続く
2 復職−映画への創作意欲
 当時の飛弾野の部下だった上田亮一は「人間的にはとても温厚で敵のいない人だったが、仕事には厳しかった」と評する。上田は終戦直後に飛弾野の推薦で東川村役場に就職した。工営課に配属され、飛弾野に仕事のイロハから叩き上げられた。公職追放で抜けた後、上田は誰よりも上司の復帰を願っていた。
 復職後、「東川ニュース」の映画撮影も再開された。上田は実写やタイトル撮影などの助手、時には出演者にもなった。飛弾野の創作意欲はニュース以外の映画にも向けられる。電車やバスを走らせていた旭川の会社をスポンサーに巻き込み、当時では珍しいパート・カラー版の観光映画を撮影した。これは、村内にある旭岳温泉への道路が完成し、観光客を誘致するために制作を思いついたという。また、産業・教育映画を作ってみたいと考えた飛弾野は、村内で木材会社を経営する木村重太郎に話を持ちかけた。木村は快諾し、植林から伐採、製材までを紹介する映画が制作された。
 木村は後に議会議長、商工観光会長などを歴任するが、多くのエピソードを持った人物で、自腹で映画館を建てたという話もある。当時、町制を敷くためには都市としてのインフラにいくつかの条件がつけられていた。そのなかに「映画館があること」という項目があった。東川村にはかつて西八号界隈に映画館が存在したが、戦前に閉館され、すでに跡形もなかった。木村は町制施行のためなら自分が映画館をつくる、といいだし、あっというまに″東劇″を建ててしまった。
3 活動−東川カメラクラブ
 飛弾野は映画撮影と並行して写真も撮り、他の課から写真撮影を頼まれても気軽に応じていた。やがて、飛弾野に写真を教わりたいという者たちが集まり、昭和27(1952年、「東川カメラクラブ」が結成された。このクラブには上田の他に、郵便局長の松岡薫、民間からは西田謹治(農業)、西原好一(養鶏業)、山田尤咲(自転車店経営)、粟飯原輝雄(後に写真館開業)らが参加。やがて牧清(農業)、役場からも若手の森下滋らが入会した。
 カメラクラブの活動は飛弾野の影響もあり、奉仕的なことが主だった。西田謹治は暗箱を購入し、小・中学校のクラス写真や卒業写真の撮影を無償で行っていた。クラブのメンバーは頼まれて写真コンテストに応募したことも数度あったようだが、全く関心外のことだった。
 上田にとって最も忘れられない思い出は、昭和29(1954)年、東川で第9回国民体育大会の炬火採火と登山競技が行われたときの事だという。村長の藤田は大会が終わる数日前になり、助役の中原好夫に「解散式の時、選手や来賓、大会関係者に何かいい土産を渡すよう」告げる。解散式は3日後。中原は困り果てた末に、東川の名所の写真をセットにして記念品にすることを思いつく。
 「6・7枚セットで80組位だったかなあ。飛弾野さんは話を引き受けたんだけど、どうやったらいいか考えていました。そして「オレの家に集まってくれ」と号令かけられ、メンバーが集められた。飛弾野さんが考えたのは、引伸しから水洗いまで、それぞれ専門分けした流れ作業。印画紙がなかなか乾かなくて、家中に新聞紙敷き詰めて写真を並べました。そうして夜明け前までやって、朝になってみたら座敷中カーリングした印画紙でいっぱい。癖が直らなくて、またみんな呼ばれて、棒で裏から伸して印画紙の癖直しをして、やっと間に合わせた。あの時は大変だったけど、みんなに喜ばれました」と回想する。
4 退職−休息への歩み
 飛弾野は新しい道具を見つけては、使いこなすことが得意だった。役場内で″計算尺″を最初に使い、バイクで通勤をはじめ、それらを各課に広めたのも飛弾野だった。また、自動車を共同購入して、みんなで使い回すことを思いついて実行したり、役場に自動車を最初に導入したのも飛弾野の発案だった。
 役場に勤めてから土木・建設畑一筋で30年が過ぎた。飛弾野は町長の藤田に「どこか他の課の仕事もしてみたい」と伝えた。数週間後、藤田から収入役への就任要請を受ける。金の計算は苦手だからと辞退するが、藤田は、もう決めたことだ、と譲らなかった。
 収入役になっても飛弾野の「弁当とカメラは忘れたことがない」日々は続くが、公務に追われ、東川ニュースやカメラクラブの活動にも専念できなくなる。テレビが家庭に急激に普及し、上映会への期待も薄れ、東川ニュースも忘れられてゆく。そして飛弾野の推進力を失ったカメラクラブは自然消滅していった。
 飛弾野は藤田町長時代の4年、そして後任の中川音治町長時代の8年、計12年間収入役を務め、昭和50(1975)年、定年退職する。退職後はノンビリしたいと思っていたが、中川から保育所の所長就任を要請され辞退したが、結局は引き受けてしまった。中川は飛弾野よりちょうど10歳年下。14歳の時、給仕として役場に雇われ、町長にまで登りつめた立志伝的な人物である。
 保育所長時代の飛弾野はここでも写真を撮ったり、七夕やクリスマスには漫画映画の上映会をして楽しませた。そしてスライド映写機と専用のカメラを購入し、子供たちの日々を写した幻燈会も行った。4年間の所長任期を終え、また同時に就任させられた選挙管理委員会委員長という公職も昭和58(1983)年に終えた。ようやく飛弾野が望むノンビリとした日々を送ることになる。








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