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◎セミパブリックな空間としての街路◎
 再び、計画図の局口街と桂州墓の交差点に目を移そう。局口街から桂州墓にわずかに入ったところに破線が描かれている。これは木戸ではなかろうか。現在、この場所に木戸は存在しない。が、他の場所では行政単位が表示された木戸の遺構が残っているところもある。また、都市改造により開発された街路から従来の街路にアクセスする場所に木戸の遺構があったりする。これが木戸であったとすれば、人が頻繁に出入りする繁華な商業地と閑静な居住地を隔てていたことになる。街路はパブリックな空間であるが、こうして人の出入りを管理できる街路はセミパブリックな空間であったといえるだろう。特に、厦門は無秩序に発展した交易都市であるからこそ、こうした自治管理が徹底していたと考えられる。(写[6][7])
写真[6]かつての行政単位が記された木戸の遺構…
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都市改造以前の街路を歩いていると、所々で木戸の遺構に出くわす。なかには、まぐさにかつての行政単位名が記されているものもある。現在では扉はなく、自由に出入りできるが、戸臍が残っていることから当時は扉がはめ込まれていたことがわかる。
写真[7]騎楼の間に設けられた木戸の遺構…
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一九三○年前後の都市改造によって開発された街路は基本的に改造以前の街路と接続された。開発された街路から改造以前の街路にアクセスする場所にもまた、木戸の遺構が見られる場所がある。また、聞き取り調査でも騎楼が開発された後も木戸で人の出入りを管理していたということが聞き取れた場所もある。
 都市改造によって開発された街路は、裏に広がる既成の市街に自ずとこのような役割を与えたのではなかろうか。都市改造によって登場した新しい街路は車道と歩道の区別をもち、幅の狭い従来の街路と明確なヒエラルキーが生じたのである。(写[8])
写真[8]思明西路から桂州墓へのアクセス
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(図[3]の[4]に対応)
 前述したように、従来の街路である桂州墓は思明西路の開発により分断された。南側は袋小路になり、この街路に面した住居のためのきわめてプライベート性の高い街路となった。一方、北側では街路が付け替えられた。思明西路が丘陵地形を切り開いて開発されたため、階段でつなげられている。その上、思明西路には騎楼が街路に垂直に割られているため、付け替えられた街路は従来の街路と角度がつき、見通せないようになっている。さらに、騎楼が三階建てであることにより、ただでさえ細い従来の街路がものすごく狭く感じられる。よそ者が入りにくい空間が生み出されているのである。
 街路が付け替えられたことによって、形成時期の異なる街路が共存することになった。そして、都市改造以前の街路も従来からのセミパブリックな意味を失うことなく生きられたのである。








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