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新老人の生き方に学ぶ[15]
戦争体験の明と暗
 三輪 誠(83歳)
 
 昨年秋、新老人の会では「私たちの遺書―語り残したい戦争体験―」を出版いたしました。「すべての事実をありのまま残していこう」という立場にたって、戦争という現実がひとりの人間やその家族、友人に何をもたらしたかを勇気をもって語っていただきました。戦争のもたらした史実に多くの異論、批判はあっても、戦争を知らない世代に、戦争下の人間のありのままの姿を残し、伝えていくことが平和を願う一市民としていまできることだと考えます。
 今回は、執筆者のおひとり三輪さんのご体験の一部をご紹介せていただきます。
 
モロ族の住むサンガサンガ島
 
 私は昭和19年3月、満州で応召しました。ボルネオ西海岸で機帆船に移乗し、東海岸へ向う途中、敵機の来襲を受けて船は沈没し、辛うじて任地タウイタウイ諸島のサンガサンが島へ着いたのは、11月の初旬でした。島民はモロ族が大半で、島の治安は計り難く、数哩離れた島では分遣隊が全員島民に殺されたという情報も入ってきました。
 毎日のようにモロ族の元軍人というジュマデルが隊長と私のもとへやってきました。彼と親しくなるうちに、子どもの教育が話題になりました。また私たちは何らかの方法で島民を掌握する必要がありました。それで私は隊長に提案し、学校をつくることにしました。
 早速ジュマデルが集めてくれた10歳から14〜15歳くらいまでの8人と握手をし、みんなで歌うことからはじめました。彼らは歌が大好きで、一番早く覚え好んだのは「浜辺の歌」でした。常夏の南海の小さな島々に生きている彼らは、自分の年齢さえ分かりません。そんな彼らに一体何を教えたらいいのか。迷ったすえに私の決めたテーマは「Who is a good Filipino?(よいフィリピン人とはどんな人のこと)」でした。
 私はいつ戦いで死ぬかもしない。そんな状況の中で、何かを残したい。彼らの心に、日本人の心(あるいは私という人間といった方が適切かもしれません)を伝えたい。そんな一途な願いでした。
 
森の学校(ガンポンスクール)
 
 2週間ほど毎日単身で集落へ通い子どもたちと唱和し、算数の初歩を教え子どもたちと遊びました。歯を黒く染め、唇を赤くぬったモロ族の母親たちは私の行動を警戒しつつ物珍しそうに眺めていました。
 ある日子どもたちが私を自分たちの家へ案内してくれました。やぐらの上に造られた薄暗い小屋のような住み家に入るのは何となく気味悪く思いましたが、彼らはタピオカやバナナでもてなしてくれました。彼らの中には手足の潰瘍がひどくただれ、その傷口に群がる蝿を追い払っている様子がみられました。私はマーキュロやヨードチンキを持参し治療してあげました。同僚の兵隊たちからは煙草を手に入れることを頼まれましたが、私は島民に求めることは一切すべきではないという信念を通しました。また隊長は危険を案じ護衛のために兵隊をつけることをすすめてくれましたが、私はそれも断りわざと武器ももちませんでした。
 12月下旬、父親たちが力をあわせて私たちの兵舎と子どもたちの集落の中間地帯に、ガンポン(森)スクールをつくってくれました。もちろん校舎とは名ばかりの、彼らの住居と同様に椰子の葉を組んだものでした。しかし、掘っ建て小屋でも彼らの学校ができたことは大変なできごとでした。子どもたちはビンタという小船で海岸沿いにやってきましたし、私の足取りも軽くなりました。南国の陽は照りつけ、極彩色のオームや猿の群れに出会う、まさに自然に恵まれた森の学校でした。15〜16名に増えた子どもたちともすっかり親しくなりました。そのためか夕方になると折々兵舎へ母親たちがマンゴやバナナを届けてくれるようになりました。
 しかし昭和20年2月3日、サンガサンガ島から撤収する日がきました。ガンポンスクールを閉鎖し、親しくなった可愛い子どもたちとも別れなくてはなりません。朝、校長格の隊長と2人で学校へ向かいましたが、子どもの姿は見えません。不審に思っていると、木々の間から「わぁー」と一斉に飛び出してきました。いたずらっぽい子どもたち。最後の授業を終えて、学校はしばらく休むことを告げ、再会を約束して校歌にしていた「浜辺の歌」を歌いました。一番なついていたオンマル少年は、「あなたは米兵に撃たれるだろう」とさびしげに、これからの私どもの運命を予言しました。
 サンガサンガ島でのこうしたモロ族の子どもたちとの温かい交わりは、その直後の北ボルネオ戦線における「死の行軍」の暗い悲惨な思い出とは対照的に、いつまでも明るい南海の思い出として私の胸を去りません。そして、これは戦わずして駐留の任務を無事に果たした分遣隊の記録でもあります。
* * *
 今日、フィリピン政府にとってモロ族は中々厄介な部族で、1971年武力による分離独立を宣言したイスラム教徒反政府勢力の中で、モロ民族解放戦線を組織した過激な集団であると報じられています。私は、賢いオンマル少年の顔を思い浮かべ、ガンポンスクールで数力月一緒に歌い、遊び、学んだ子どもたちの平安を願わずにはいられません。
 
死の行軍
 
 日本は、フィリピンのレイテ湾に米軍が上陸したときから、急速に敗戦の色を濃くしてきました。この状況に伴い、私の駐屯部隊は昭和20年2月、ボルネオ本土東海岸タワオに移動し、2月6日、タウイタウイ諸島から集結した2,000人を超す軍隊の全兵員が西海岸、現在のコタキナバルへ向けて大転進をはじめました。
 この日から北ボルネオの奥深いジャングルと湿地帯、高峰キナバル山麓地帯を抜けて西へ進むいわゆる「死の行軍」が始まりました。マラリヤ、デング熱で動けなくなった日々。食料の欠乏や脚気、ゲリラの襲撃。いたるところに吸いつくヒル。時には象やオランウータンなどの野生動物との遭遇に脅えました。落伍者や死者の続出、倒れる戦友に手を貸すこともできず、まとまった行軍など不可能となり、 2〜3人でかばいあいながら力の限りを振り絞って歩きました。幾度か死の渕をさまよいながら、心身ともに消耗した無残な姿でようやく目的地ゼッセルトンにたどり着いたのは、4ヵ月を経た6月中旬のことでした。
 タワオを出発した分遣隊40数名のわが戦友中26名が命を落とし、2,000人余りの連隊中、1,200人余りが亡くなりました。陰惨で鬼気迫る地獄の様相を呈した「死の行軍」の体験は、50数年を経た今なお私の心に大きく残っています。
 ジャングルに命を落とした戦友の冥福を祈り、今日の多難な国際間の情勢に鑑み、世界が平和への道を進むようにと強く願っています。
 
 (本文は三輪氏の原文を編集部がリライトしております。原文は「私たちの遺書」をお読みください)
 








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