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新老人の生き方に学ぶ[13]
 New Elder Citizens
88歳まだまだ途中下車(2)
 −浮沈転々また転々−
児童文学者 わだ よしおみ
 
 二十歳の時,新宿歌舞伎座で上演された私の劇は,私をひどくみじめにしました。こんな劇は人に見せる代物ではない。冷や汗が流れ,家族にも見せませんでした。
 しかし,いただいた上演料の50円はありがたく,そのお金で奥多摩の宿屋に20日間も泊まりました。結局何も書けませんでしたが,万葉集とシェークスピアを読みふけりました。
 お金が尽きて家に帰ると,父は勤めていた会社の金を使いこんで行方不明になっていました。母と私たち4人の子どもは,途方に暮れましたが,父の弟にあたる叔父の援助で,私は叔父の家に,母と妹弟4人は小さな家へ引っ越し,何とか暮らすことになりました。
 貧乏のつらさは,嫌というほど体験しましたが,叔父の尽力で,私は東京宝塚劇場に勤めることになりました。
 東宝は,小林一三翁が東京進出をはかり「東京宝塚劇場」「有楽座」「日比谷映画」の3つを中心に,新しい娯楽街をつくろうという計画でした。
 私は文芸部に所属して,雑誌の編集やプログラムの制作をしました。小学校の頃から学級新聞など作っていたので,興味深く仕事に打ち込みました。まわりは年上の人ばかりで,和気に包まれ,時には小林社長が立ち寄られて雑談をされました。「今太閤」の異名のある小林さんの風格に,私は畏敬を感じました。
 しかし,4年後に正式な社員へ登用されたとき,私は東宝を退社しました。もっと勉強し,自分の劇を書きたかったのです。行李にいっぱい本を詰めて,高知市へ赴き,8ヵ月ほど滞在しました。
 そこでは,記紀,万葉集,世阿弥,芭蕉などを読みふけりました。劇を書く立場から,日本と欧米の文化を対比し,これからの劇を探るつもりでした。海援隊の坂本竜馬,三菱の岩崎弥太郎,自由民権の中江兆民など,維新に活躍した土佐の人々の骨太の豪快さが好きになりました。
 書きたいものが少しずつみえてきましたが,とにかく働かねばなりません。私は東京に戻り新聞の募集記事を見て,日新書院という出版社に入社しました。50人に1人という競争率でした。
 ここでは,科学ペンや医事公論という特別な雑誌を作り,いい勉強になりました。
 働きながら,2年の間に私は自分の劇を書き上げました。ドストエフスキーの「悪霊」を下地に,国家主義と自由主義の対立を書いたのです。270枚の大作でした。友人に見せると,「面白いけど今はこんな劇発表できる時じゃない」といわれました。
 その通り,自由という言葉さえ容易に使えない,厳しい思想弾圧下の日本でした。私は原稿を押し入れにしまいました。残念でした。
 太平洋戦争が始まりました。友人の多くが出征し,また報道班や占領地の司政官になって海外に行きました。
 東宝時代の友人が来て「朝鮮の子どもたちに紙芝居を見せて回る仕事がある。君は子ども向きだから,いいと思うよ」といいました。朝鮮へ行けば収入も多くなる。朝鮮は,母方の祖父が生涯を閉じたところでもありました。「行こう」私は決心しました。
 行く前に友人がすすめた結婚をしました。相手は,新潟の田舎の町長さんの娘です。母が喜んでくれました。私は数えで30歳でした。
(つづく)
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和田さんの手がけた絵本








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