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関東軍での三年間
安藤 主雄(あんどうかずお 一九二〇年生)
 
 明治・大正・昭和と戦争に明け暮れた日本にも、昭和二十年(一九四五)八月の敗戦によって、やっと平和が訪れ、五十年の戦争のない時代が流れ、戦争を知らない世代が、今の日本を背負うようになった。
 しかし、最近気になることは、この戦争の歴史を見直そうとする動きがあることである。戦前の、国のためという教育を受け、身を捨てて家族捨て、戦争に尊い命を捧げた兵士や人々、広島、長崎の原爆で地獄を味わったことを決して忘れてはならない。
 戦争に「聖戦」はあり得ない。何故ならば戦争とは自分が生きるために、敵を憎み人を殺さなければならないからである。
 私も外地で、この戦争体験をした一人として二度とこの過ちを繰り返さないことを、心から願っている。
 日支事変の進む昭和十五年(一九四〇)、軍国熱に浮かされて私は、徴兵検査を待たず志願兵として、旧満州の戦車隊に勇んで入隊した。
 北の守りを固める関東軍は、部隊をソ満国境に展開して私も北満の牡丹江に移動した。しかし、三年の軍隊の生活は、日ソ不可侵条約のおかげで、戦争を経験することもなく、比較的平穏に過ごすことができた。
 三年の軍役の後、現地除隊して、奉天にある満州飛行機に入社して、戦争に勝つため軍用機の生産に励んだ。
 そして、昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争に突入して、緒戦は真珠湾の奇襲攻撃等により勝利を得たが、連合国の強大な物量の反撃に日本は次第に後退を余儀なくされ、本土の空襲も報ぜられるようになり、満州も戦時体制が強化されて、満州の中国人も犠牲を強いられ、無理やりに協力を強いられた。
 除隊した戦車隊の戦友の多くも召集を受け、南方戦線に送られ、玉砕のニュースを聞くようになったが、満州に在る私たちは神風や、日本の最後の勝利を信じ、また関東軍に対する信頼は不動のものであった。
 奉天で初めて空襲を受けた日は今も忘れられない。空襲警報もなく高々度を飛行する四発機に、日本にもまだこのような爆撃機が温存されていたかと、思う間もなく爆弾が投下され、アメリカのB29と気づき逃げ惑った。空襲後、急遽会社は分散疎開して、私も奉天からハルビン郊外に移動勤務した。
 二十年(一九四五)八月九日、ソ連は一方的に不可侵条約を破棄し、軍隊を国境より一気に南下進攻させてきた。無防備の国境地帯の開拓団は戦火に追われ、逃げてくる中で、いまの中国残留孤児の悲劇が生まれた。
 そして、八月十五日正午に重大放送があると全社員一堂に集められた。いよいよソ連に宣戦布告し、関東軍の総反撃かと期待して、放送に耳をそばだてたが、雑音が多く充分聞き取れない中、ラジオは終戦を告げた。日本は負けたのだ。外地でこれからどうなるのかと全身の力が抜けていく。この時を待っていたかのように、ハルビンの街の軒並みに前から準備されていた布製の青天白日旗が掲げられた。敗戦の情報を知らなかったのは一般の日本人だけで、関東軍の上層部はすでに現地の日本人を見捨て内地に撤退していたのだ。外地で経験する初めての敗戦に、明日からどうなるのか誰もわからない。私たちを守ってくれる国家も軍隊もここにはない。
 数日を待たず、先発のソ連軍が進駐してきて、ハルビンは兵隊の略奪と暴行の脅威にさらされ、女性は髪を切り顔を汚し、男装して家に隠れた。やがて日本人の男子は、街角や家の中で軍人として捕らえられ、着の身着のままで無蓋貨車に詰め込まれ、食べ物も与えられず奥地の捕虜収容所へ連行され、家族の消息に心を残しつつ死の行進が開始された。
 国境近くの、捕虜収容所に集められた日本人には、次第に迫り来る冬の寒さに不安を感じる中、ウラジオストックから日本に帰すというニュースが流れ、移動が開始されたが、これがシベリヤ抑留になるとは知らず、心から喜んで捕虜収容所を後にした。
 しかし、私たち飛行機会社に関係していた者は、残されて奉天の工場に戻され、機械の撤収に従事させられた。やがて工場の機械を根こそぎ本国に送り、ソ連軍が引き揚げた後、やっと解放され自由にされ、日本人のための日僑収容所に身を落ち着けることができた。誰もの願いは一つ、ただ日本に帰る希望であったが、戦争は人の心を変えてしまった。
 私もそうであったが、自分だけは生き延びて帰るという思いが、他を思い遣る心を失わせてしまったのである。
 奥地から身一つで逃げてきた同胞が日本人学校の収容所で、寒さと飢えで死んで、茶毘に付せられることもなく、遺体は校庭に掘られた穴に投げこまれる現状にあっても、現地に生活して何年分かの物資を持つ者は援助の心を閉ざしていた。こういう時にこそ人間の本性の極限が現れるらしい。
 戦後半世紀を経て、平和の幸せを忘れようとしているが、戦争を体験した者は、これを風化させないで、語り継いでいく責任がある。
 幸い私は中国に残留技術者として、三年留用されたのち帰国した。その後は一貫して、社会福祉の仕事に携わり、少しでも戦争の償いをすることができたことを感謝している。








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