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ソ連軍の暴虐
長谷川 信司(はせがわしんじ 一九二二年生)
 
 東京都出身の私は満州奉天五四九部隊(関東軍通信教育隊)で終戦を迎えた。そして、シベリヤ、カラカンダ、第六収容所に抑留。昭和二十四(一九四九)年十月舞鶴に帰還した。以下は私の戦争体験である。大東亜戦争も二年目、北海のアッツ島玉砕(全員が戦死すること)、緒戦の勝利に陰りが見えだした頃、国内では各大学の文科系が動員される非常事態の緊迫した世相の時、九州佐賀電信二連隊に入営することとなった。東京駅の車中で同年兵が車窓から身を乗り出し歓呼の声に応えているのに急に空しくなり、反対側の空席で駅舎の赤煉瓦を見ていると、お江戸も是れが見納め、銀座の柳も再び見ることはあるまい、これからどうなる事やらと感傷的になって泣けてきてハンカチで顔を覆い上をむいていた。一昼夜半揺られて佐賀に着く。陸軍二等兵誕生。お客さん扱いは二日位、意地の悪い古年兵にタコつかれ、こづき廻され地獄の初年兵生活が始まる。
 練兵場は背振山の麓、厳寒の風に曝されながら教練に手は霜焼け、毎晩点呼後理由のないシゴキやビンタの嵐、気の弱いものが餌になる幹部候補生を志願する。桜の花が咲く頃甲種幹部候補生に採用、入校先は満州とのこと。今まで集合教育は東京の通信学校だった。東京なら家にも帰れる、彼女にも逢えると思っていたのが本年から満州とは、なんてこった。
 零下三十度、銃に氷の花が咲く所、泣く子も黙る関東軍。これは大変な所と覚悟を決めた次第。内地とは風景の変わった朝鮮半島を北上、原色の民族衣裳も物珍しくやがて奉天に着く。さすが大陸の都市、広い大きい。駅前の円い広場から放射線に伸びた道路、満人が皮付き鞭で驢馬を御してる風景も目新しい。ビル街を抜け北稜街道を行軍する。北稜は歴代、統治者の霊所で、松があり風光明媚な社。部隊は東北大学の跡地、兵舎は煉瓦作り三階建て。緑に囲まれ点在する内地にはない広い敷地の部隊で驚いた。満鮮の有・無線の教育機関、終了後原隊復帰。八ヶ月経てば佐賀に帰れる。毎日カレンダーに×印を付けてその日を待つ。灼熱の大陸の夏、四十キロ行軍、徹夜演習、いよいよ一週間の厳寒期の卒業演習とプログラムは進んだ。
 今迄の演習とは異なり、大規模な状況のなかの通信連隊の動きを習得するもの。零下三十度を超ゆる大地は凍てついて寒さに耐えることだけで精一杯だった。そこで運命を分ける事件を起こしたのである。
 演習最終日、保線の連絡に車で出掛け、目的地で作業開始、一時間後に迎えに来る予定。ところが作業が終わっても迎えの車は来ないので歩きだした。陽は沈み夜の帳に包まれ、車の往来の途絶えた撫順街道、民間の車でも何でも止めてやれと思って待っていると車のライトが一条見えてきた。街道に出て大手を広げて立ち塞がり、車を急停車させた。民間の車と思いきや、国防色の学校長の車なり。是れは大変、逃げ出したくなった。荒々しくドアー蹴って出てきた学校長閣下、「何故止めた?」軍刀を握って怒っている。「乗せて頂きたく思います」…「よし、乗れ」恐る恐る乗る。生きた心地なし。宿営地に着く。区隊長に事故報告、嫌な顔で舌打された。
 翌朝、全生徒に講評がある。昨夜の事故を思うと営倉入りか、良くて謹慎か、学校長の乗用車を止めた無礼者。講評の最後の頃、今回の演習で私の車を止めた候補生、手を挙げよ…。到頭おいでなすったと覚悟を決め、手を挙げた。状況説明の後、此の候補生の行為で、もし言い訳をしたり、嘘をついたら叩切ってやろうと思っていた。乗せて貰いたい、実に、率直、淡白な答え、日頃の区隊長の訓育宜しきを得たもの、本演習の成果と認む。意外な結末。軍隊とは誠に不思議な所なり。
 やがて卒業、転属先の発表があり、希望に胸膨らませ全満各地に巣立って行った。私は現、教育隊に勤務、皆から羨ましがられたが又しても内地には帰れなかった。
 年が明けた頃から朝空を見上げると、B29が偵察したらしく青空に白墨で線を引いた様な飛行機雲が残っている。薄気味が悪い。戦局は予断を許さない所にきているのが解る。休日は馬か、サイドカーで巡察。夜もろくに寝られない週番勤務とこき使われるが、巡察は軍紀、風紀の取締まり。繁華街を走り廻る私達を見ると驚いて敬礼する兵、女郎屋も自由に出入り出来るすごい権力。江戸時代のお代官様になった気分で得意満面。
 やがて無傷の関東軍からも比島(フィリピン)、沖縄へ転出、本土防衛には大分思い切って引き抜いた。夏、人事の大移動、補充兵が大分召集されてきた。頭数は増えたが老兵で質はさがる。我が隊も七月に部隊長は司令部付き新任の隊長となる。八月九日、ソ連軍国境突破侵入、各軍事施設爆撃、開拓団は主要都市に集結避難が始まり、新京−大連の線で防御する予定とか。ソ連は味方ではないが独ソ戦で叩かれ、当分は立直れまい。それに不可侵条約が生きている。希望的観測をしてた当方も油断があり、まさかと思っていた王道楽土の大陸も、此の日から硝煙血なまぐさい修羅場と一変した。
 市内の高級住宅街は既に避難し無人、門から玄関まで衣類や貴金属が点々と捨てられてあり、混乱と狼狽の様子が目にみえるようだ。家の中も豪華な家具調度品。相当裕福な家庭と伺える。下着がある。四、五日、風呂に入らないので換える。他のものには一切用がない。自分の明日の命が解らない。全く無欲なり。生死を分けた時の価値観を体験出来た。
 終戦の玉音放送。生まれて初めて聞く玉音も、混信、雑音で意味がよく解らず、到頭ソ連に宣戦布告と勘違いして緊張したが、終戦の御詔勅、まさか敗戦とは信じられなかった。死から生、戦いは終わった生きてる。電灯の黒幕をはずし、明るい夜。市内の方から潮騒のような騒めき。時折銃声もする。騒乱以来、露営の軍刀を枕にしたゴロ寝から兵舎のベッドで終戦の第一夜は更けてゆく。国境の部隊では連絡がとれず、戦闘続行中の部隊や、誰一人見送りもなく、外蒙から侵入する敵戦車群に体当たりする特攻機。最前線の部隊には依然として皇軍魂は烈々として燃え盛っていた。ソ連軍は至らず、混乱した市内の中央官庁街へ警備につく。軒先には早くも赤旗を掲げ、新しい支配者を歓迎して居る満人街を行く。敵視した眼、とても一人では歩けない。治安は最悪。警備中、満人の紳士が近づいて私の手を握り「兵隊さん、日本は必ず復興しますよ、日本の皆さんは民族としての誇りを持ってる素晴らしい国です。頑張って下さい」こんな暖かい励ましの言葉を満人の紳士から貰うとは思いもよらず、感激で胸が詰まった。
 数日後、戦車隊を先頭にお粗末な服装の貧相なソ連兵が、星のマークが其の儘付いた米国製のトラックに乗って続々と入ってきた。市内は此の日から、ソ連兵の強盗、略奪、暴行、強姦の修羅の街と化し、満人も晴天白日旗を掲げ、日本人に襲いかかった。まず将官以上拘束、部隊は軟禁状態で完全に無力の存在となり、民間人は今や丸裸で放り出され、五十万以上の屈強な男子を確保するため、日本軍将兵だけでなく無計画な人狩りの暴挙が実行され、重工業設備から幼稚園の椅子、満人の家畜まで持ち去り、地上の楽園と称する幻の創造のため労働に就かされた。
 シベリヤの極限の生活の中で赤裸々な人間像を見せられ、数多くの人とめぐり逢えた事は生涯の仕合せであり、貴重な体験でした。
 戦友が、栄養失調で今端の際の言葉に、「日本に帰って桜の花がみたいな」。此の一言が心に残ります。戦後五十年、今年も日本に美しい桜の花が咲きました。終戦の混乱時、またシベリヤの大地に眠れる友の霊安かれと、衷心より祈念致します。








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