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シベリアの地獄門
阿波根 朝宏(あわねあさひろ 一九一一年生)
 
 シベリア抑留については、今までに多くの抑留者らから、それぞれの立場や環境での体験談が発表されている。それは、抑留の苦難、苛酷な労働、ノルマによる食事のことなどさまざまである。
 シベリア抑留は、体験者が語っているように、全く複雑多岐にわたり、その焦点の把握がむずかしい。私もシベリア抑留体験者であるが、自分の体験を取り上げようとすると、どこに苦労があったか、自分でもはっきりした焦点をつかんでいない。しかし、抑留の苦労は、見え隠れして体がしばられている感じ。
ダモイ
 シベリアに抑留されて二年が経った。待ちに待ったダモイ(帰国)が、やっと実現しそうになった。その夜、私たちは、一カ所のラーゲル(収容所)に集結した。ダモイ組は、だいたい夜半の集合であった。私もダモイ組として就寝中に起こされて集合した。空は晴れ、星空であった。全員集合を終え、出発を待つばかりであった。しばらくして、ラーゲルの係官らしき人が、いきなり「これから呼ばれた者は帰って寝てよい」と言った。その言葉の余韻は嫌な予感めいたものとなって夜空にひびいた。そのうちに私の名前が呼ばれた。耳を疑った。しかし、それは現実であった。五、六名呼ばれたようである。仕方なく元の寝床にもどったが、ショックだった。
 時は過ぎ、またダモイの時が来た。例の如く夜半の集合。こんどこそは本物だろうと自己推理して、皆と一緒に夜空の下に並んで待った。また例の如く係官の声である。再び私は帰って寝てよいの組に入った。そこで、ダモイは当分不可能だと思った。しかし、その理由がのみ込めない。翌日、係官に帰国が出来ない理由を求めた。「お前は、こういうことでリストに載っているんだ」と帰国出来ない理由を説明した。その理由とは、次のようなことであった。
捕虜となって
 私は終戦を満州のハルピンで迎えた。玉音放送直後、一青年将校が銃口をくわえて自殺した。それが終戦時の印象として私の脳裡に刻み込まれた。八月二十八日、海林収容所から貨車に乗せられ、ソ連の東海岸近くに位置するコムソモリスクの西の奥地に捕虜としての第一歩を踏み出した。私は隊員一千名の作業大隊所属であった。
 月日が経つに従って、いろいろな問題や障害にぶつかった。ある問題のために私は、酷寒に何日間も火の気のない営倉に入れられもした。また、軍医としての任務上、私は隊員の健康管理の責任者でもあった。怪我や病気で作業に出られない者を日本の軍隊式に、練兵休として休ませた。最初のうちは四、五名程度であったが、十名、二十名と増え、遂に八十名にまで達した。その時に、ラーゲルの所長からクレームがついた。「患者が多く出るのは軍医の責任である」―即決で、ある衛生兵と交代を命ぜられ、即刻、伐採班にまわされ、毎日が薪かつぎである。一種の懲罰である。それから鉄道路線の側溝掘り、土地爆破のための井戸掘り。
 零下三十度といえば寒さが身にしみるはずだが、労働の汗は、上衣を脱いで上半身裸になっても寒さは感じられない。慣れれば零下三十度は暖かい。ツルハシ、シャベルを握った寒気の中の裸の列である。
 しばらくすると、いわゆる民主運動、すなわち洗脳教育なるものが各ラーゲルで盛んになった。そこには、洗脳パス者でなければダモイは出来ないという雰囲気があった。いきおい、仮面をかぶった洗脳者を生む結果ともなった。そして、洗脳教育の一環として壁新聞が必要欠くべからざるものとなった。勿論、私たちラーゲルにも、その風潮は流れ込んできた。いろいろと曲折はあったが、結局私が壁新聞の責任者にさせられた。
ラーゲルは生簀
 私は、「いけす」と題して壁新聞に投稿した。日本の伊勢湾でとれるエビは、いったんいけすに入れられる。大海で自由に生息していたエビが、いきなり箱詰めにされての長距離輸送には、環境の急変がもたらす危険を伴う。われわれの環境もエビと同じである、といった意味のことを書いた。その壁新聞が張り出され、それがソ連の諜報官の知るところとなり、「お前たちをいけすに入れたのは誰れか、スターリンか、天皇か」との詰問。以後、懲罰を背負うこととなり、転々として、最後は、樺太対岸のソフガワニのラーゲルに収容された。「いけす」の一文だけが原因ではないかもしれないが、リストに載り、それがどこまでもついてまわり、ダモイの障害になっていたとは、考えてもみなかった。
地獄の門
 前に二回もダモイを見送られたが、三度目となった。私もダモイ組に編入され、ナホトカの収容所に移動させられた。しかし、二度あることは三度、信用がおけなくなった。一種の反発的あきらめである。また「これから呼ばれるものは」の組に入るに違いない。なかば、あきらめのような、覚悟めいたものがあった。
 夏の晴れた暑い昼前であった。いよいよダモイ組の集合である。ラーゲルの焼けつくような広場に坐り、並んで待たされた。何時間か待ったが、ラーゲルの門が開いた。私の後にいた青木君が、私の肩をつついて、「地獄の門が開きましたね」と言った。とっさのことで、私は、その言葉の意味の理解に苦しんだ。二度もダモイを見送られたものとしての複雑さが、そこにあったからであろう。私は、だまって、それに対して自問自答した。
 そのうちに、一人ひとり呼ばれて、出口の方へ進み出た。そして門を抜け出て外へと出て行った。私の番が近づいてきた。「お前は元の場所へ戻って」と言われるのではないかと、胸が落ちつかない。それは、ほんの一瞬の間だったろう。私はとにかく、門の外へ出られた。逃げるように走ったようだ。先に着いて並んで待っている人たちに合流し、やや安堵感で雑談を交わして待った。しかし、私の後からすぐ来るはずの青木君の姿が見えない。気になって、しばらく後の方まで逆戻りして行ったが、見つからない。
 先に彼が言った“地獄の門“の意味は、「地獄の門から出られる」「地獄行きの門が開いた」の両方の意味が、初めて現実味をおびて脳裡をかすめて行った。
 いよいよ乗船。タラップを思い切って登って行った。甲板にたどりついて、どっと安堵感が湧いた。後は出航を待つばかり。
 昭和二十三年(一九四八)八月十九日、ナホトカ港出発、八月二十二日、舞鶴港上陸、即日召集解除。後で分かったが、帰還船は「山澄丸」であった。








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