2 大塔村の集落再編整備事業
(1)集落再編整備事業の概要
大塔村においては、昭和35年ごろからの急激な過疎化の進展に伴い共同体としての機能維持が困難な集落を対象に住民の意向を尊重しながら、三川、鮎川の基幹集落に小集落の移転を誘導し、生活環境の充実、福祉水準の向上を図るため集落再編整備を行った。
[1]集落再編の背景
大塔村は、昭和40年の山村振興法の制定を受け、昭和42年に振興山村に指定された。大塔村は、当時の急激な人口流出により、
ア 農林業等生産条件の悪化
イ 学校及び社会教育の低下
ウ 医療、防災の困難
工 若年労働力の流出による産業活動の停滞
オ 受益者負担能力低下に伴う生活環境施設整備の遅延
力 住民の孤独感による生活意欲の減退等があらわれ、山村集落の基礎的条件の維持が困難となっていた。
このような厳しい過疎現象に対応する総合的な対応策として、住民の意向を尊重しながら、生活と生産の拠点となる集落にこれら過疎集落の移転を誘導し、もって住民の福祉水準を向上し、併せて村の行政財政の効率化を図るため全村的な集落再編整備事業に着手した。
[2]集落再編が計画された集落の状況
実際に、集落移転の必要があるとして移転計画の策定がなされた集落は次の14集落で、昭和44年には139戸、549人が生活していた。
九川、東長、原、細野、大熊、平、和田、上小川、西大谷、竹の平、梨垣内、五味、上木守、愛賀合
このうち、上小川と愛賀合は旧鮎川村に属し、村の中心地(役場所在地)から約6km、九川、東長、原、細野、大熊、平、西大谷、竹の平、梨垣内、五味、上木守は旧三川村に属し、鮎川とは水系の異なる日置川の支流沿いに点在し、最も遠い上木守は鮎川から峠越えで38kmの距離にある。
また、和田は旧富里村に属し、これも日置川の支流沿いにあり、和田は鮎川から21kmの距離にある。
(就業状況)
14集落の全人口549人(昭和44年)のうち就業人口は227人、うち第一次産業が70.5%(農業9%、林業18.5%、農林兼業43%)、第2次産業が14.1%、第3次産業が15.4%であった。
(土地利用状況)
14集落の農用地は昭和35年に83.4haであったものが昭和44年には57.5haと9年間で31.1%減少、その後さらに25.0%減少するものと推測されていた。農用地は林地に転換するものがほとんどであった。
(農林地の整備、保有、農林産物の状況)
14集落の水田42.3haは地形的に山林に囲まれた棚田が多く、日照時間が短いことから、収量は村平均を下回り機械化の余地も少なかった。
山林も70%が村外所有者のものであることから林業経営規模も1戸当たり平均2ha未満と少なく労務提供により生計を立てていた。また、林業の機械化等についても村外の山林所有者に依存している状態にあった。
農林産物としては、コメが100トン(大塔村全体430トン)である一方、木材が12,000m3(村全体で40,000m3)と全村の3割を占めていた。
[3]生産条件等整備計画(下附団地)
大塔村では、まず昭和45年度〜46年度に第1期計画として村の中心部の鮎川の下附に10集落(※)50戸を対象として移転を誘導することとし、次のとおり生産条件等整備計画を策定した。
※10集落・・九川、東長、原、細野、大熊、平、西の俣、和田、上小川、愛賀合
(農林業経営整備計画)
跡地利用については、通勤農業希望者に営農改善指導を行うとともに、地域の特性を生かした特産物(ワサビ、シイタケ、花木等)の生産団地を造成し、移転先の団地には花木生産施設を設置して移転者の協業による花木生産を行うこととした。
現実としては、移転跡地の大半を造林地に転用し、山村所有規模が零細なこと、山林の管理は季節的なものであることから新集落団地から通勤して経営管理することとなった。
(工場誘致計画)
昭和45年秋に下附団地に隣接する宮代地区に(株)大塔金属工業を誘致(100名規模の雇用を予定していた。)、移転転職者及び一般就労者の就労斡旋を行い、女子労働者については、縫製工場を団地内に誘致することとした。
[4]下附団地の集落再編整備事業の経緯
下附団地への集落再編整備事業は、事業の性格上行政主導で進められた。
村では、昭和42年5月山村集落の統合構想につき、国、県の指導を得ながら研究に入り、昭和43年の5月には山村集落の再編基本計画の調査に着手、昭和44年7月に集落再編整備事業基本計画、昭和45年3月に集落再編整備事業計画が作成された。同年4月には集落整備モデル事業に関して村議会の同意を得、移転住民の意向調査が開始された。
移転住民の意思決定は、一律には進まず、先祖代々の土地を離れること等の不安から、結果として移転しない世帯が発生、一部の集落を除いては集落でまとまって移転する形にならなかった。
なお、区画の割り当てについて、出身集落毎に区画を決めるのではなく、抽選で宅地を決定したのは、旧集落ごとにまとまるのではなく、全く新しい集落としてまとまることとするためであった。
[5]集落再編整備事業の実績
A 集落再編モデル事業(経済企画庁)(昭和45年度〜46年度)
集落団地名:下附団地
面積:18,620m2
総事業費:233,309千円(うち補助対象事業費58,000千円)
移転者の居住集落:12集落(九川、東長、原、細野、大熊、平、和田、上小川、西大谷、五味、上木守、愛賀合)
移転戸数:31戸
移転人口:124人
B 過疎地域集落再編整備事業(自治省)(昭和47年度〜48年度)
集落団地名:下附団地、向山団地
面積:20,000m2
総事業費:119,824千円(うち補助対象事業費48,789千円)
移転集落:3集落(西大谷、竹の平、梨垣内)
移転戸数:下附団地10戸、向山団地10戸
移転人口:下附団地36人、向山団地35人
C 第2期山村振興対策事業(農林省)(昭和48年度〜49年度)
集落団地名:面川団地
面積:2,000m2
総事業費:25,431千円(うち補助対象事業費9,831千円)
移転集落:1集落(大熊集落)
移転戸数:面川団地5戸
移転人口:面川団地19人
これら3つの集落再編整備事業で、大塔村全体で14集落、56戸、214人の集落再編整備が実施された。(下附団地41戸、160人、向山団地10戸、35人、面川団地5戸、19人)
3つの集落再編整備事業で移転元となった14集落の昭和44年における戸数、人口は139戸、549であったが、集落再編モデル事業(経企庁)は、集落の全戸移転を採択要件としていないことから、村全体で56戸の移転となった。したがって、下附団地はいわば「寄せ集め型」の集落再編と言うべきものとなった。
なお、全戸移転を行った集落は、小規模な集落であり、当該集落に属する世帯の状況が共通していた、あるいは、一部でも移転する世帯があれば残された世帯により集落機能を維持することが困難という事情もあり全戸移転が実現されたものと考えられる。
ア 移転住民の職業
移転した56戸のうち41戸が就業していたが、うち移転前に農業に従事していた16戸については、引き続き農業に従事することとしたのがわずか3戸、林業への転職が5戸、商工業が7戸などとなっている。また、林業に従事していた24戸については、引き続き林業に従事することとしたのが14戸、商工業が7戸などとなっている。 村においては団地への移転後の就職先について、既述のとおり(株)大塔金属、縫製工場などを斡旋した。
イ 現在の移転者の意識
現地調査において、下附団地の移転住民から移転についての評価をヒアリングしたところ下記のような回答があった。
・移転の動機付けは、村、行政側からの積極的な働きかけにあった。
・出身集落(和田)に通勤するのに車で一時間かかるので、当初は、近くに移転することを検討したが、今になって考えると村の中心部に出てきて良かった。現在も通勤農業を継続している。
・限界集落から移転して誰一人後悔している者はいない。自分も田辺市中心部まで車で20分で通勤する子供と一緒に住むことができ本当に良かったと思う。
・団地の住民は通勤林業、通勤農業のほか縫製工場、大塔金属に勤務している人が多い。
・墓地も集落から移転団地近くに移した。先祖も便利な所に引っ越して感謝していると思う。
・家の型式については一律とせず2〜3パターンのうちから住民が選ぶこととした。このことが、住民が家に愛着を持つことにつながった。
・移転の1世代目は定着しているが次の世代は外に出ているケースが多い。
(向山団地への集落移転)
向山団地は旧三川村の基幹集落に整備され、昭和48年に団地に程近い梨垣内(5戸、22人)、西大谷(3戸、10人)、竹の平(2戸、3人)の3集落から10戸、35名が移転した。
上述の下附団地の住民の声にもあったように、所要時間の短い通勤林業、通勤農業を行い、密度の濃い跡地管理を行うことを意図した住民が多かった。
現地調査では、西大谷集落(下附団地への移転も含めて全戸移転)の移転跡地まで足を運んだが、間伐・枝打ちが行き届くなど林地の適切な管理が実施されていることから、その理由について尋ねたが、住民の先祖代々の土地を愛する心の表れであるとの回答を得た。