3.2 貨物船ぼりばあ丸
3.2.1 海難の背景
昭和43年8月大型タンカー陽邦丸の船体中央部破損事故に続き、昭和44年1月、野島崎沖で大型撒積貨物船ぼりばあ丸が船体切断事故によって沈没した。翌昭和45年2月、鉱石専用船かりふぉるにあ丸が船首部破損から浸水し沈没した。この一連の海難事故は、造船界、海運界のみならず社会全体に大きな衝撃を与えた。これら3隻には、ともに第20次計画造船によって建造された船令4〜5年の比較的新しい大型船で、当時及びその後も引き続き数隻の外国籍大型船の損傷事故が発生していた。
この様な大型船の大事故に至る前兆は、我国において既に昭和40年頃から現われ始めていた。即ち、水圧試験時、試運転時もしくは就航直後に船体主要部材に損傷事故が発生していており、日本海事協会では昭和41年2月、ウエブの板厚に関する通達で造船会社に増厚を要求し、同時にNK部内に深水タンク損傷対策委員会を設け、原因の究明に当っていた。
3.2.2 事故概要
昭和43年12月10日、ぼりばあ丸(ジャパンライン所有、54271重量トン、船長他32名乗り込み)は、ペルーのサンニコラスから川崎に向けて出港した。積み荷は鉄鉱石ペレットで、No.1船倉に11,790トン、No.3船倉に24,572トン、No.6船倉に17,384トンのオルト積みで計53,746トンとほぼ満載状態であった。
出港以来順調な航海を続け、昭和44年1月2〜3日頃、日本東方海上にある1000mbの低気圧中心から南西に延びる寒冷前線を通過した。4日頃、低気圧の中心から700海里で24〜40ノットの強風が吹き荒れ、付近の風浪の発達著しく、同日夕方には風力階級8となり、ほぼ船首方向から風を受け速力8〜9ノットで、波高(有義値)7.2m、平均周期9.7秒の波の中を航行していた。翌5日午前10時30分頃、33.00N-144,36Eの海上でNo.2船倉折損事故が発生した。船長は事故発生後直ちに「全員非常配置に付け」「機関停止」を発令すると共に「SOSの発信」を命じ、非常退船準備に入った。
救命ボートは、船体傾斜のためや波頭にボートの底をたたかれて落下するなど1隻も役立たなかった。船体は折損事故発生から約1時間後に沈没した。乗組員は2名が救助されたのみで他の31名は行方不明となった。
午前10時32分「...SOS de JIGV・...3300N,14436E...に折れた。...」「フオックスル2つに折れ、前部沈没、航行不能、間もなく救命艇に移乗、至急救助頼む」の信号を付近航行中の貨物船健島丸(川崎汽船所属)が傍受し救助に向った。10時59分「2番ハッチより折損、12番浸水、現在浮上するも海没のうれいあり、総員非常配置、退船準備中なり」。11時10分、健島丸にこれと同じ内容の電文を本社宛打電するよう依頼してきた。その後健島丸は11時24分、6〜7海里前方にぼりばあ丸を確認したが、それからわずか数分後にぼりばあ丸は船尾を垂直に立てて沈没した。11時50分頃、現場に到着した健島丸は捜索を開始し、12時過ぎに波間に漂う2名を発見したが、救命艇は使えず他の方法によって救助した。
午後3時30分頃には海上保安庁の飛行機が到着、同4時過ぎにモンテビデオ丸、量和丸等も加わり付近の海域の捜索が行なわれたが、他の乗組員を発見することは出来なかった。その後月末まで航空機、船舶による捜索は続行されたが、ついに31名は発見出来なかった。
ぼりばあ丸の最後の模様を目撃した健島丸船長の電文は、当時の状況を次のように伝えている「本船(健島丸)は10時半遭難通信を受け、現場に急行した。当時、西の風、風力9〜10、うねり約10m。午前11時20分ば丸を発見、同11時半頃は3番ハッチ付近まで水面下に沈下していた。間もなくぼ丸から5海里付近まで近付いた時、船橋前方に水柱があがると同時に船首から急激に沈下、船体は垂直になって沈んだ。乗組員は救命艇に乗移る間もなかった模様である。本船は午後0時半頃遭難現場に到着、3〜4人の乗組員がボートや救命具につかまって漂流しているのを発見、救助活動を始めた。風浪高く、本船は吃水が浅いため、操船は困難を極め容易に近付くことが出来ず、漂流者を見失いがちで、午後2時頃までに2人を救助したが他の1,2名は見失った。現場を数回往復したが救命艇が2隻転覆、漂流、救命イカダが開いていていたが無人のまま漂流、その他のものが多数浮かび点々と散在している。その後豊和丸、モンテビデオ丸も加わって捜索を続行しているが日没。あとは発見の見込が薄い。…中略…付近の海上は西の風。風力9〜10、うねり10m、月あかりあるが雲多い。各船と連結をとり、捜索続行中。健島丸船長」(朝日新聞、昭和44年1月6日付)
3.2.3 航海記録と定期検査
ぼりばあ丸は就航から遭難までに26航海しているが、そのうち風力階級8以上の荒天に遭遇した航海は10回ある。鉄鉱石のオルト積みを始めたのは第13次航からで、積荷が1種類1港揚げとなり、比重の重い鉄鉱石をオルト積みにすることにより重心を高くし、船の横動揺周期を長くし、更に荷役を楽にするためである。
表3.2.1 ぼりばあ丸のNK検査歴
(「海員」1969年3月号による)
検査終了日 |
検査の種類 |
検査場所 |
検査内容 |
1965.9.13 |
登録検査 |
IHI東京第2工場 |
全般 |
1965.11.13 |
臨時検査 |
ノフォーク |
No.2(S)、No.3、No.4(S)のサイドタンクの水平版の溶接部の亀裂の補修工事 |
1966.10.19 |
第2種中間検査 |
IHI相生工場 |
(1)全般
(2)No.5船倉ロ両端、隆起甲板下端部の亀裂補修工事
(3)海難による船首船底外販の補修 |
1967.9.23 |
第1種中間検査 |
IHI呉工場 |
浮上中検査(1967年12月31日までに入渠検査を指定) |
1967.11.28 |
臨時検査 |
ノフォーク |
(入渠検査を1968年2月15日まで延期) |
1968.2.14 |
臨時検査 |
IHI相生工場 |
(1)指定による入居検査
(2)接岸時の船首部損傷の補修
(3)船首隔壁、No.2ショルダータンクの亀裂補修
(4)荷役の際のホッパー頂板凹損の補修 |
1968.10.17 |
第2種中間検査 |
  |
(1)全般
(2)接岸時の船首部損傷の補修 |
文献4(表3.2.1)によれば、ぼりばあ丸は試運転時及び定期検査時に、次のように数多くの損傷が発見され、補修工事を受けている。
1) 試運転時
水圧試験が終了し、タンクから排水したところ、No.2船倉のビルジホッパーが大音響とともに広範囲にわたり座屈した。また、No.2及びNo.4船倉前後の横隔壁のウェブプレートが上から下まで凹損していた。補修工事のため引き渡しを1ヶ月延長された。
2) 就航直後の損傷
処女航海出港直後、No.2及びNo.4船倉の各右舷ビルジホッパー上部棚板下方より漏水が発見された。その後、No.3船倉からも同様の漏水があり、応急処置された。
原因は隅肉溶接不良などと推定された。
隆起甲板周りの亀裂が初年度に、ハッチコーナー付近、隆起甲板と上甲板の取り合い部に71ヶ所発生した。
3) 中間検査及び臨時検査時の補修
ハッチコーミングステイと上甲板との取り合い部の亀裂、No.1(P)トップサイドタンク内のカラープレート、No.5(S)ビルジホッパー内のトランスリングの亀裂、No.3船倉内左舷ハッチエンドコーミングステイ根本の亀裂などが順次発見され補修された。その他、岸壁での接触や荷役中の凹損などに対する補修が行われた。
このような事故歴に対して、文献4では次のような問題点が指摘された。
1) 水密隔壁数の不足
NK鋼船規則12編6条によると船長166〜186mの一般貨物船は9枚以上必要であるが、船長215mのぼりばあ丸は7枚しかない。隔壁の船体強度に及ぼす影響については議論があるが、遭難時の安全性に関係する浸水時の浮力の点からは危険側にあることは間違いない。
2) 隆起甲板横造
船体強度を増す目的で採用された隆起甲板は、ぼりばあ丸建造時はかえって、船体構造上の弱点となることが判明し、NKもこの種構造を採用しないよう勧告していた。現在は一般に採用されていない。
3) 適用基準
ぼりばあ丸は鉱石船、撒積貨物船の規定ではなく、一般貨物船の規定で造られている。中心線桁板、側桁板、実体肋骨等の寸法は、ホモ積みをする一般貸物船用の値で、オルト積みに必要な値としては小さすぎる可能性が強い。
海難審判における山越九大教授の鑑定では、No.2及びNo.3船倉付近のホッバー斜板上部にかなり大きな剪断力が発生し、降伏を生ずる可能性があり、剪断力に対する強度不足は明らかとしている。
4) バラストタンクの防食
昭和43年2月14日付のNK検査報告書によると「本船は電気防食を大幅に採用しているが、FPTにはめったにWater Ballastを張ることが無いということで、防食効果がほとんど無く、塗料やセメントも施していないため、発錆がひどく、将来大幅な補修を必要とすることが予想されたので、船主に適当な対策を立てるよう勧告しておいた。」
5) 鋼材
実際の建造に図面通りの鋼材が使用されていたかどうか不明であった。
6) 溶接不良
全日海が大型船の損傷の実態で指摘し、運輸省も手抜き溶接を指摘し、石川島播磨重工に対して警告を出した。
3.2.4 事故調査委員会
運輸省は事故直後の1月24日、造船技術審議会の中に鉱石運搬船特別部会を設置し、原因究明をかねた事故対策の検討を開始した。しかし9月19日運輸大臣に「原因不明。但し、他の大型船には安全上問題となる点はない」とする建議書を提出したのみで、事故原因調査結果の報告書は作成されなかった(H12報告書の表3.0.1)。また、そのような結論のため、表だった対策をとられなかった。
3.2.5 造研における研究
[SR118,SR119]における研究
造研ではこの事故に鑑み、大型鉱石運搬船の就航時の実態を調べて船体構造上の問題点を探るため、下記研究SR118及びSR119を事故直後の昭和44年度から開始した。
[SR118] |
課題: |
大型鉱石運搬船の船体各部応力に関する実船試験(44〜46年,3ヶ年計画) |
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内容: |
3隻について波浪荷重(縦及び横)、鉱石等の積付け時応力等の計測 |
[SR119] |
課題: |
大型鉱石運搬隻の船体構造材料に関する研究 |
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内容: |
脆性破壊機構と破壊伝播停止特性 |
これらの研究は翌年に発生した「かりふぉるにあ丸」沈没海難の後実施された造研の研究SR121,SR124,SR131,132,133に引き継がれた。