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そこで寝たきりになって自分がいじめた嫁に看護をしてもらうのはいやだということで、一生懸命ぽっくり寺にお参りをしまして、「ぽっくり往生させてほしい」。祈っておまじまいを受けるというのが話題になったことがあります。そういう形は、いいか悪いか別としまして、人間としての尊厳を持ったままで死にたいといいますか、そういうことはやっぱりあるのじゃないかという気がするのですね。

先ほども話に出ましたが、臓器移植の問題。特に心臓死か脳死かの問題ですが、日本にはどうしてもどちらかというと心臓死にこだわる信仰がよくあります。こういうふうな事件を聞いたことがあります。これは、自分の子供が非常に熱心に、ラグビーをしているときにぶつかっちゃって脳死状態になった。そこで両親が、急いで駆けつけてみましたら、ラグビーの友達が、一生懸命心臓マッサージをしていたと。何とか生きさせようと。ところが、医者が実際にはもう脳死状態なのだと、臓器移植を勧められた。お父さんとお母さんはその場で、そんなことはとてもいやだ。現に、今心臓動いているからと、断ったのですね。三周忌になったときに、お父さんはあれでよかったと言った。けれどもお母さんは、「もしあのときにあの子の臓器移植を認めていたら、あの子はだれかの身体の中で生き続けているのじゃないだろうか」と。そういうふうに感じたのだと告白されております。これはやっぱりいのちを育む女性と男性との判断の違いかもしれませんが、何らかの形で、自分が死んだあともいのちを残し続けておきたい、そういうふうな希望というのは人間持っているわけですね。

そうしたような、自分が死んで肉体が朽ちたあとも自分のいのちにかわるもの、あるいは自分の思い出にかわるものを何らかの形でこの世に残し続けたいと。永世がかなわない以上はそのことを望むのは当然だと思います。そのときに、そうした臓器移植のように肉体的なものを残すこともありますし、もう一つは、遺伝子として残すっていう。これも一つの考え方だと思います。それから、言うまでもなく、子供を残すということは遺伝子を通して子孫を残していくことになります。それからもう一つは、死ぬ人はやっぱり自分の死後のことが非常に気になるっていうことがあります。

第二次大戦で学徒出陣が盛んだったころに、寮長をしていた先生が、実存主義の講義のときにポツリと言った言葉があります。「出征している学生が、『先生、あとお願いしますよ』と言って出て行くのだ」と。あとお願いしますと言っても自分は何かわからないので、どう応えていいかしばらくの間困った。だけど、そのうちふと思いついて、「大丈夫だ、心配しないで行ってらっしゃい」というと、安心して出征していったのだと。

やっぱり人間というものは、あとのことを非常に心配する。自分が死んだあとどうなるのだろうかということを非常に心配する。自分の子供のこと、やり遂げたかった仕事のこと。先ほどの「娘を頼む」という言葉。そうしたような形のものもあるのじゃなかろうかと。そうしたようなあとのことを心配するということを考えてみますと、あとを心配させないような形での最期の往生といいますかね。この間始まった、「ほんまもの」という朝のテレビで、おばあさんが往生するときに、自分は言われたままに嫁に来たのだけれども、それなりのことをしたから満足だ。お前たちもそうするようにと孫や子供に言い残して往生いたしました。

そうしましたらお医者さんが、こんな立派な往生は初めてだ。非常によかったとおっしゃいました。やっぱり私どもは、残された生というものを考えてみた場合に、残された生の中に自分自身でより充実して、自分の最期の生きざまの中に、何か自分の面影を残していく。それが健康な子供であれ、仕事であれ、そういうものを残して、そしてそれをあとの人に託して死んでいくといいますか、これがある意味で死を見つめ、残された今をより充実して生きることになるのではないかなという気がするわけでございます。

ここにいらっしゃる皆様方は比較的まだ残された生が長いようでございますから、それぞれの残された生をより充実した形で生きていかれるうえで、何か私の話がお役に立てれば非常に幸せだと思います。ちょうど予定の時間になりましたから、このへんで講演を終わらせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。

 

司会:宮家さん、どうもありがとうございました。皆様、今一度拍手でお送りください。

 

 

 

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