日本財団 図書館


ところが、先ほど日野原先生のお話を聞きながら考えたのですが、昔は身体から霊魂が去って他界に行くのが死とされていたのですけれども、自然葬の場合ですと、自分が自然にもう一回還っていく。また土に還っていく。そしてそこから新しい生がまた始まっていく。医学部の人から、私どもの身体の構成物質と土の構成物質とは非常に似ているのだということを言われたことがあります。そういう形で、人間は死後自然に還ってあともう一回再生するという、大きなドラマ、循環で動いているのじゃなかろうかと。同じようなことが植物についてもいえますよね。先ほど日野原先生は、落ちた葉が、また新しい葉として芽生えてくるとおっしゃいました。ご承知のように、昔は焼畑農耕をやっておりました。焼畑農耕というのは、木を全部切り払ってそれを燃やすわけですね。燃やしまして、その灰を肥料としてそこへ残します。そうしますと、3年間ぐらいは植物が非常に豊かな形で実ってくる。このように、植物の死体が新しい植物を育てるもとになっていくわけですね。そうしたような循環があるわけですね。非常に変な話で恐縮ですけれども、昔は肥料には、人肥を使っておりました。人間が植物とか食べ物を吸収いたしまして、吸収したものを肥料として自然に還すと。そうすると、そこで植物が成長して、それが人間に還ってくる。そうした大きな自然の摂理のような循環があって、その中で人間が生かされているといいますか、そういう考え方も一つ見られるのではないか、という気がするのですね。そうした大きな循環の中に自分を位置づける発想が、自然葬の中にも見られるのではないかと気がするわけなのです。

今申し上げました「葬送の自由を薦める会」はどちらかというとあの世よりもこの世に重点を置いて死を設計するものですが、その中に、今申しました循環の論理のようなものが生きているのではないかという気がするのです。

さて、これまでお葬式であるとかお墓であるとか、縁起の悪いことばかり申し上げましたものですから、最後に今をどう生きるかという話をしたいと思います。

これは、さっきもちらっと話しましたが、実際に死を宣告されたときに、残された生をいかに充実して生きるか。あるいはその人が、残された生を充実して生きるように周りの人がどのように協力していくのか。そういう問題が出てまいります。合理主義的な発想にたちますと、残された生を必死になって生きようとしている人の営みを尊重し、それを満たしてあげる。そういうことが必要になってくるわけですね。私は、宗教学をやっておりますから、医学についてはまったくの素人ですけれども、いくつかの医学に関係した問題をとりあげてみますと、一つは植物人間という問題ですね。改めて言うまでもないと思いますが、まったくの生ける屍になっている。そうしたようなケースの場合に、果たしてそのままでいいのだろうかという問題ですね。そういう状況のときに、ご承知のようにカレンちゃんの事件がありましたが、本人の意志、あるいはまた周りの肉親の意志で、人間としての充実した生をまっとうさせる形の尊厳死というものも考えうるのではないだろうかと。そういうことが一つ考えられます。

そうしたような形で、自分自身が寝たきりになって看護を受けることが、ある意味でその人自身も非常に苦痛になっている。宗教の世界で「ぽっくり寺」というのがはやったことがあります。ご存じの方も多いと思いますが、あちこちにあります。山形にも奈良あたりにもありました。これは、年をとっている特に女の人が多いのですが、自分の夫も亡くなってしまった。自分一人残された。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION