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が、2学期の始まる朝、心が、体が動かなくなり、“パニック”に陥った。周囲もざわめいた。M担任の顔が、心をよぎった。結果、2学期も子犬と過ごすことになってしまった。校長をはじめM担任も、多忙の中毎日のように家を訪問した。結局、修学旅行もキャンセルした。周囲は、これを期にと考えていたらしいが。他にも、仲間よりの励ましの手紙や色紙ももらった。仲間には、不登校の訳を病気と偽っていたので、その手の内容が多かった。なかでも、Fさん(女)の手紙は、心に響くものがあった。Fさんとは、4年〜6年に至るまで、常に席が隣や近くにあり、女子の中でも、いちばん仲良しだったからだ。

2学期はとかく、心との葛藤だった。常に窮屈だった。さらに、人一倍プライドの高い自分は、“学校砦”に行くことは自分に負けることだと、決して自分に許さなかった。冬休みになると、精神的、肉体的に追いつめられ、幼い12歳が引きこもり、“うつ”状態が続いた。その間、幾度となく自殺を試みた。

 

保健室への出席

3学期に入り、母が校長よりの伝言で、「このままでは、小学校浪人が」と自分につぶやいた。そんなある日、保健のI先生が初めて訪問した折りの、母との玄関での会話を自分は陰で聞いていた。「教室ではなく、保健室で出席にする」と言うのを聞き、M担任に会わなくていいのなら…と、自分の“心”が、自分の“プライド”が動いた瞬間だった。

3学期の1週間が過ぎ、ある晴れた日の朝、ひと言母にボソっと「保健室に行って来る」と言った。母は、“えっ”といった顔で、早急に保健のI先生に連絡。自分でも、なぜその日を選んだのか、今になっても理解できない。きっと、I先生に対する何かが芽生えたのだろう。初めは、I先生と握手して帰宅が1週間弱続く。そしてついに、保健室の窓を開けた。I先生なら、この“大人”なら、…との想いがあったゆえの衝動的な行動だと思う。そして、午前中しかいなかったのが、I先生と給食を共にし、勉強も教わった。

そんなある日突然、仲間が給食を持って保健室へ。M担任のババーと思った。2、3日は、仲間との話も首でうなずくだけ。がある日、Fさんの「よかった、会いたかったよ」のひと言で、閉ざしていた心が開いた。以降、仲間と話せるようになり、気がつけば、保健室が6年1組のたまり場になった。それでも、教室にも卒業式の練習にも入らず、出ずにいた。大人たちへの、自分の“プライド”、“勝つことの意味”が自分を動かし続けていた。

卒業式の練習を陰からのぞき、保健室で仲間に教わった。I先生より、「卒業式は?」の問いに、「当日だけは、教室と式には出るよ」と返し、校長、M担任、母に連絡が行った。初めて、自分の秘密を“大人”に話した瞬間だった。

今思い返してみれば、I先生の「保健室で良いから」のひと言がなければ、今日の自分は存在しなかっただろう。事実、自殺未遂も幾度となく繰り返し、うつになり、引きこもっていたわけだから。

 

芸能人のような卒業式

この体験を読まれている、今現在の不登校者諸君、“自分に負けないで!!”“自分を決して見失わないで”。必ず、あなたを励まし、見守ってくれる“大人”がいます。

 

 

 

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