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名も無き凡人“不登校の頃”

小学6年 男子

 

不登校期間 小学6年1学期〜

 

《家族構成》

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自分について

それは、小学校6年生、1学期の終盤より始まった。当時は、“登校拒否”と言われていた。今では、決して珍しくなくなってはいるが、自分たちの世代では、学年でもゼロに等しかった。そして結果的に、6年1組の教室には、卒業式の当日しか足を踏み入れることはなかった。

元来、学校は大好きだった。多くの信頼できる仲間もいたし、クラスメイト(男女とも)からはリーダーシップを任されるほどだった。決して、勉強ができる頭のいい子ではなかったが、統率力は認められていた。

当時より、とかく世間体を気にする母は、ありとあらゆる手段を自分に試みた。首に縄をつけてでもと、半ば強引に学校に行かそうとした。結果は、そのたびに自分の“心”をあおる形になり、家庭内暴力は日々ますますひどくなり、家中の壁は自らの拳で穴だらけになっていった。ただ毎日が、母との“イラダチ戦争”だった。

 

―経過―

評判の悪い担任

不登校を起こしたきっかけは、M担任の言動によるものだった。30歳になる今では、ほとんど記憶にないが、ある日突然、自分の心の中にある“気の糸”を、M担任によってまるで刀で切るように、スパーっと切られた。幼い12歳の心を。もともとM担任は、クラスメイトはもとより、学年中の生徒をはじめ、親からも評判の悪い先生だった。ある意味では、自分の行動は、幼いたった12歳の正義感による“孤独なクーデター”だったかも知れない。自分の他にも、M担任の言動による集中豪雨に会い、帰宅後、嘔吐する仲間がいたほどだ。

3兄弟の次男として生まれ育った自分は、不登校によって兄や弟にも、多大な迷惑をかけていたのも事実だ。

ただ、天井を見上げて過ごす毎日。むしょうに人恋しく、切なく、自らに対するもどかしさ、情けなさに身悶えするような日々が続いた。笑みさえ失ってしまった。見るに見かねた母が、隣から子犬をもらってくれた。失った笑みが戻った。自分にとっては、とてもタイムリーだった気がする。

夏休みに入り、母が、母の実家でリハビリをしたらどうかと、自分に勧めた。もともと婆っ子だった自分は、夏休みを婆と叔父と過ごすことになった。叔父の電器店を手伝いつつ、“精神的”“肉体的”に本来の姿になり、2学期を迎えた。

 

 

 

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