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選考委員 神戸商船大学名誉教授 杉浦昭典

 

吉村昭さんの海洋文学作品は『戦艦武蔵』に始まるそうである。吉村さんは『私の文学漂流』に『戦艦武蔵』を書くきっかけとなった経緯の中で「戦争の記録について私は関心がなく、まして、それを基礎に小説を書く気持など、みじんもなかった。私は厖大な日誌を渡されたが、その処置に困惑して書斎の隅に放置していた。」といい、また『戦艦武蔵』の「あとがき」には「調査を進めるうちに、私には、なにか戦艦武蔵が、戦争を象徴化した一種の生き物のように思えて来た。」と述べている。

確かに『戦艦武蔵』は、海軍、軍艦、戦争を真正面から見据えて書かれた、いわゆる戦記ではない。武蔵という巨大な生き物をめぐって織り成された人間模様の数々は、その壮大な計画と不幸な結末を他所に、まるで漂着者ガリヴァーに群がった小人国の人々のように他愛なくあっけなかった。設計図を焼き捨てた少年製図工の件を読んだ時には一入身につまされる思いをしたが、それも吉村さん独特の視点に立って書かれた冷静な筆致によるものだと共感を得た。

海そのものを舞台とし、あるいは海を背景にした海にまつわる吉村さんのその後の作品数の多さはいうまでもない。『深海の使者』『海の史劇』『海の絵巻』『漂流』『破船』『海の祭礼』『黒船』等々である。どの作品を読んでも不思議なくらい感動を覚えさせてくれる個所が沢山ある。常に史実を追って旅をされるという吉村さんならではの真骨頂といえよう。もっとも個人的には『アメリカ彦蔵』が好きである。漂流民の話となると概して暗くなり勝ちであるが、この本を読み終えて感じるほのぼのとした爽やかさはまた格別であった。彦蔵だけでなく、彼と接触のあった他の漂流民たちについても詳しく、吉村さんの力の入れようが察せられて興味が尽きない。特別賞をお受け頂くには最もふさわしい方である。

 

 

 

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