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3) 「ケア」の再定義 〜存在の世話をする〜

私たちは、ケアする人への調査をすすめるにあたり、「人間にとってケアとは何か」をもう一度定義し直す必要があった。なぜなら、「ケアする人のケア」は、単にケアする人の苦しみを取りだし分析して解決をすることを目的とするものではなく、ケアそのものの大切さや価値に注目し、ケアする人が癒されるようなケアの文化の構築をめざすことが必要であると考えたからである。

ここでは、委員会の議論の結果をふまえてケアを再定義し、そのうえで、介護を担う家族、福祉の仕事に就く人たち、ケアに関るボランティアの3つのワーキングチームによってすすめられた調査の結果をまとめる。

「ケア」は、食事や排泄の世話を始めとする「介助」や「介護」と同じ意味で使われがちだが、本来は「気遣い」や「配慮」など、人と人が出会い、触れ合うところで相互に交わされる人間の本来的な営みも含まれる。

私たちの調査では、介護を担う人たちの声を集めたが、「介護している私たちの方が、相手にケアされている」というヘルパーや、あるいは「障害のある子どもによって、私が成長させてもらった」という母親の声が少なからずあった。このことは、何を意味しているのだろうか。

法政大学助教授の森村修さんは、ブックレット『ケアする人のケア』の「あなたとわたしの幸福のために−『存在することのケア』に向けて」の中で次のように述べている。

ケアとは、具体的にはどのような実践を意味しているのでしょうか?私は、「ケアの倫理」の立場から「ケアとは、<ケアする人>も<ケアされる人>も、ケアという関わりを通じて、互いに少しでも<幸福>になることが目指されている実践である」と答えたいと思います。私がこのように答える背景には、ケアが特定の職業や仕事に限定されず、あらゆる人がケアを行うことができ、また、私たちも日々の生活のなかですでに実践しているという事実があります。

その意味でケアは、新しく獲得されなければならない手段でもないし、特定の資格のように、後から習得しなければならないようなスキル(技術)でもありません。ケアとは、私たちが<そこに居ること>で身近な人を癒すことのできる、私たちの存在性に根ざした<関わり>なのです。

「ケアする」というとき、身体そのものの世話は、介護する人が担っているように見える。しかし、人間は目に見える身体的な世話をするとか、されるとかだけでは生きていくことはできない。精神的な世話、魂の世話も含めて、自らの存在全体を誰かによって世話されることで生きていると言えるのではないだろうか。

つまり、ケアする人が「介護をすることで私がケアされている」「子どもを育てることで私が成長させてもらった」というのは、介護という行為をとおして、共に悩み、共に生き死にについて考え、支えられたり癒されたりしながら、お互いの存在を世話し合っているということ意味しているのではないだろうか。

私たちは、調査や研究集会を通じて、ケアとは何か、ケアは必要か、ケアは好ましいことか、ケアは人間にとってどのような意味をもつのか、ということを問いつづけてきた。そして、人間にとって必要な人と人との関係「ケア」が今どこに残っているのか、どのように育まれようとしているのかを探る作業をすすめた。

 

 

 

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