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2 結核予防セミナー(モンゴル)

総括報告

 

(財)結核予防会会長 青木正和

 

結核予防会ではモンゴルでのNational Seminar for Tuberculosis(以下、全国結核セミナーと略す)を1994年から今日までの6年間に、4回にわたって支援してきた。そこで、過去のセミナーも含めて結核予防会のモンゴルの結核対策に対する協力の実績、これによって改革された結核対策の実状、結核の蔓延状況などを総括的に報告し、われわれの国際協力の評価、将来の展望にも役立てたいと考える。

最近のモンゴルの結核蔓延状況、対策を考える場合、旧ソ連の影響が極めて強かった1993年以前と、それ以後に分けて考えるのがよいだろう。

 

I. 1993年以前の状況

モンゴルは第2次世界大戦後、ソ連、中国、東欧諸国の援助を受けながら発展してきたが、1950年代末にソ連と中国が対立した後には専らソ連に頼り、ソ連、東欧型の社会主義路線を堅持しながら発展してきた。このため、結核対策もソ連の方式で実施されてきたので、レントゲン診断や肺結核外科療法の重視、あるいは、入院治療や長期治療の重視、さらに、専門医による縦割りの組織など世界的な立場から見れば「やや古い臨床的立場にたった結核対策」が実施されてきた。当時は結核病院はウランバートルに3つ、各アイマーク(県)に1つずつ整備され、結核病床数は920床(現在は200床)にのぼった。1980年からの結核罹患率の推移を見ると図1の通りである。変動が大きいので実状の推測がやや困難であるが1993年の罹患率は10万対61.8であった。この年は罹患率の推移の谷の底であり、届出率の問題もあるので、恐らく10万対100程度、日本の3倍位と考えればよいだろうか?この頃まで診断は専らレントゲン写真で行われており、新登録患者中の塗抹陽性例は10%にもなっていないので、診断の精度にも問題があったと考えられる。

つまり、1992年2月にモンゴルの現行憲法が施行される以前の「モンゴル人民共和国」の結核対策は、旧ソヴィエト連邦の影響を強く受け臨床的色彩が強く、世界の流れとは大きく異なるものであった。

 

II. 第4回全国結核セミナー支援までの経緯

1) 第1回全国結核セミナーまで

新しい憲法の下で国名を「モンゴル国」と改めた1992年に、National Tuberculosis Center(以下NTCと略す)の所長Dr.Tsogtは結核研究所の国際研修コースに参加したが、結核病学の進展、モンゴルの結核対策と世界の対策との間には大きな差があることに強い衝撃を受け、帰国するとモンゴルの対策の改革に乗り出した。

 

 

 

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