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<寄稿>

 

タンザニア雑感

勝又直人*

 

タンザニアが何処にあるかと聞かれて迷わずにその位置を地図上で指し示すことのできる人は驚くほど少ないようです。これまで余り知られる機会の無かったこの国の横顔を、その一端だけでもご紹介できればと思い筆を執りました。

筆者が観光開発の指導・助言のためJICAの短期専門家としてタンザニアに派遣されたのは1998年3月末のことでした。まだ雨期が明けず、バケツで水を撒くような激しい雨が間断的に降り市内の至る所に大きなプールができていました。ダルエスサラーム市の中心部、アスカリ記念碑に面した事務所は広々としているのですが、隙間だらけで蚊の出入りは自由。気温は摂氏27〜28度を少し超えた程度でしたが、湿度は計りの目盛りもこれが目一杯かと感じられる程でした。停電、電話の不通は極めて頻繁。十分な情報も無いまま飛び込んだタンザニアでしたが、その後五ヶ月の厳しい生活環境に備える心構えはこの時にできました。

 

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タンザニア位置図

 

タンザニア―余り知られていないアフリカの国

アフリカ大陸の多くの国々が植民支配の縦縛を解かれたのは1960年代のことです。

多くの国々が独立を果たして希望に胸を膨らませアフリカが輝いた時だったと言えます。しかしながら、その後約40年、20世紀が幕を下ろすまでのアフリカは世界の誰もが知るとおり、民族間抗争、貧困、犯罪、疫病に悩まされ続けた年月でした。新聞、テレビの報道がネガティブなものに偏っていたとしても、それらは概ね的を外してはいなかったのです。

そんな中で、世界を一種の「情報過疎」状態に置くほどにタンザニアは政治的、社会的な安定と平和を保っていました。125の部族を抱えながら部族間抗争に悩まされる事はこれまでありませんでした。南アフリカのアパルトヘイトからの解放支援の先頭に立ったことは大陸内では良く知られています。現在も南アとタンザニアを結ぶ鉄道の一部に「自由鉄道」(Uhuru Rail)の名が付けられているのもそのためです。日本でもブルンジのフツ族、ツチ族の血なまぐさい抗争がしきりに報道されましたが、その調停役を果たすよう求められているのもこのタンザニアなのです。国父と敬われ、慕われた初代大統領ニエレレ(昨年10月他界)は生前「困っている隣人にはいつでも救いの手を」と説き続けたと言われます。世界の最貧国の一つに数えられながら、その教えを守り、今も近隣諸国から35万人を超える難民を受け入れている事実は余り知られていません。マス・メディアの報道対象になる出来事が少なかったタンザニア。まさにNo news is good news. と言ったところです。主都ダルエスサラームの名はもとはペルシャ語とアラビア語が合成されてできた言葉で、平和の宿る港と言うほどの意味だそうです。名前が願望だけに終わらなかったこと、平和の故にこれまで余り広く世界に知られる機会がなかったことはむしろ喜ぶべき事だったのでしょう。

 

* タンザニア天然資源・観光省観光開発振興専門家

 

 

 

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