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(歴史)

 

江戸町民の足、渡し舟

〜渡し舟の歴史と制度〜

 

谷弘

 

1. まえがき

「渡し」と言えば、フーテンの寅さんで有名になった柴又の「矢切の渡し」を思い出す人も多いのではないかと思う。現代人にとっては、一般的には櫓擢(あるいは最近ではエンジン)を使って舟を動かす「船渡し」がポピュラーであるが、歴史的に見るとこれだけではない。

もともと「渡し」というのは、池、澤、川、海等全て水のある所を渡ることを意味していたことから、「歩渡り(かちわたり:徒歩で渡る)」や、「籠渡し(かごわたし:断崖絶壁に綱張り、籠を吊ってその中に入った人を渡す)」も「渡し」である。しかし、この稿においては、舟をテーマにしているので、舟を使ったものに限定したい。

また、渡し舟も櫓擢を使う「船渡し」だけではない。櫓擢を使わず両岸に渡した綱を繰って舟を渡す「綱渡し」も古くからとられている方法である。むしろ古代は、この方法の方が一般的であったのではないかという人もいるくらいである。綱渡しを記録した文献も多い。例えば、室町中頃に出版された萬里宗久という僧が書いた『梅花無盡蔵』には、「黒井と中浜の間に河あり、両岸に柱を立て大綱を張り、渡る者は皆手をくって舟をやる、轉船(くりぶね)という。」とある。また、江戸中期に寺島良安が書いた『和漢三才図会』は、「三才図会云、野航(わたしぶね)は田家の小き渡船也、村野の間の如き橋無き處此を以て往来を便ず、わずか人畜一二を載すべし、但渡水に於ては両傍に竹草の索を以て索をひきて即ち彼の岸にいたる。」としている。『和漢船用集』も、この『和漢三才図会』の記述を引用するとともに、図1に示す「綱渡」の絵を掲げてもっと広く説明している。この「綱渡」の説明では、「すべて山河水の流疾して、ろかいのおよばざる者、両岸に杙(くい)をたて大綱を引渡し、此綱をくりて舟を渡す者也。」としている。

私の故郷は徳島県であるが、吉野川には昭和20年代まで鋼製ロープを張った「綱渡し」が残っていた。オーストリアOttensheimのドナウ川には、今でも写真1のような両岸のタワーの間に鋼製ロープを張り、これと滑車でT字型に船をロープで繋げ、少し斜めに舵を取ることにより、横方向の推力を出して運航するエンジンなしの「綱渡し」カーフェリーがある。

 

※ 日本原子力研究所理事

 

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図1 綱渡し舟(『和漢船用集』より)

 

 

 

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