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でも同時に、日本人が明治以降、欧米、特にヨーロッパの文化に出会ってそれに追いつかなければという思いをずっと背負っている、僕にはオペラがその代表のように思えてしまう。なぜ“現代の我々のオペラ”というものを創ろうとしないのか、という疑問は何となくずっとある。芸能というものが芸術になろうとした時に、一生懸命守ろうとしたものがあってその功績も沢山あるけれど、その時に失ってしまったものがあるように思う。

加藤 確かに芸能と芸術は分けにくい。そもそも分けなければいいのだけれど。芸を味わう、芸術を味わうという時、いろいろの価値観、様々の視点があっていいはずだ。自由に。でもオペラに関していうと、いつ頃からかオペラは芸術だ、これが正統だ、ともしかしたら不自由な意識を近代人は持ってしまったのかもしれない。

串田 もちろん演劇にも、額縁(プロセニアム)の中の壊してはいけない(ある型)、ヨーロッパの絶対的価値観というものがあった。僕たちは新劇と呼ばれる環境で育って、自分たちの劇団を創り、「本当の演劇はどこにあるのだろう、我々の演劇とは何だろう」と模索しながら演劇に携わってきた訳だけれど、いまやヨーロッパの演劇でさえ、古典的なものでも“現代の人”という解釈でやろうとしたり、現代の視点と作品の距離感を意識している。「演じる」ということは、ただ“そっくりになる”ことではなくて、どういうセンスでそれを捉えるか、ということだと思う。例えばオペラでは、“死ぬ”と言いながら何十分も歌う、という笑い話があるけれど、それは直接的にリアリズムで表現するのではなく、人間のある瞬間を歌という表現方法を使って拡大し直しているわけで、演劇的視点から見ても面白い。「昔、ヨーロッパのある時代のある状況の中でオペラというものが生まれて、それは実に魅力的だったので、徐々に世界中の人々を魅了し、アジアの端の我々まで虜にし、愚かなことに、それを自分達でもやってみたいと思う人間までいて、−私のことですが−」というしごく客観的な姿勢を前提にして、その上で各々が各々の観点やセンス、オペラに対する情熱で作品を作ればいいと思う。そうすれば、どんなに遠い話でも、現代の日本の我々と結びつくものが生まれてくるんじゃないだろうか。

加藤 サムの芝居作りの大きな要素の中に即興性から始めるというのがあるよね。ボクの共感する解釈だと、即興から俳優の一人が或るリアルな感じを掴んだ時、その感受性にのってまたさらに別のリアルなものをもう一人と生み出すそういう瞬間を捉えようとしている。これまで知らなかったリアルな感じを再構成して別の世界を作り出す。ボクは最近フォルムとリアリズムの問題を考えながら、即興とリアリズムをサムからこう学んだ。ところでオペラは音楽が一方でデンと君臨するフォルマルな表現だろ。オペラの中に何を根拠にリアルとするか。距離性のこと異化性のこと、そして即興をどうオペラの仕事に方法として持ち込めるか、ボクの課題でもあるんだ。

 

 

 

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