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耕筰・1920年代・歌

片山杜秀

 

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1920年代の山田耕筰

 

今秋、ある生涯学習講座で山田耕筰の話をした。受講者は大半70〜80代で、わざわざそんな講座をとって下さるくらいだから、皆さんそれなりに音楽の愛好者である。が、そんな方々でも耕筰を『からたちの花』や『赤とんぼ』の作曲家としてしか知らない。そして生涯、そういう叙情歌を作り続けていたのだろうくらいに思い込まれている。

そこで、いや、耕筰は決して歌だけの作曲家ではない、彼の創作歴は半世紀以上に及ぶけれど、その有名な歌曲や童謡のかなりはちょうど皆さんがお生まれになった頃の1920年代に集中して作られたのだと説明する。たとえば本日のプログラムだと『異国』が1910年(明治43年)、『野薔薇』が1917年(大正6年)と少し早いし、それから長崎で被爆者の治療に当たった永井隆博士の詩に付曲した『南天の花』は戦後の1949年(昭和24年)だけれど、残りの多くは1920年代に詰め込まれてくる。即ち、『風に寄せてうたへる春の歌』が1920年(大正9年)、『かやの木山の』と『六騎』と『曼珠沙華』が22年、『鐘が鳴ります』と『砂山』と『ペチカ』と『待ちぼうけ』が23年、『城ケ島の雨』が24年、『からたちの花』が25年、『この道』と『箱根八里は』は27年(昭和2年)、『中国地方の子守唄』と『松島音頭』が28年という按配だ。

そんな話をすると、すぐ御老人方から質問が飛ぶ。では他の時期の耕筰はいったい何をしていたのか?そこでお答えする。もちろん歌作りもやっていたけれど、交響曲やオペラに情熱を注いでいたのだと。そして例として、この曲は1920年代の歌の時代とだぶるけれどと断りつつ、1922年の交響曲『明治頌歌』を、それから31年のオペラ『あやめ』や40年のオペラ『黒船』を聴いて頂く。すると御老人方はスピーカーに向かい拍手し、耕筰にこんな大作群があったとは知らなかった、何で我々の耳にこれらは届いてこなかったのかと憤りだす方もあらわれる。それは日本の音楽界の在り様がどこかおかしいからとお答えし、ひとまず収めにかかる。

が、更に質問が飛ぶ。極めて多面的に創作していたらしい耕筰が1920年代にとりわけ歌にこだわったのはなぜか?はて、それについてはあまり詰めて考えてみたことはなかった。一瞬、窮したところで、耕筰の自伝から次の一節が思い浮かんだ。

「日本を音楽的に育てるのは、交響曲や室内楽というような純音楽よりは、オペラや楽劇のような、劇音楽によるのが捷径だと私は考えた。…日本のような純音楽的素地の全くない土地に、純音楽の種子をいくら蒔いたところで、いい芽生えは得られない。世界にもちょっと類のない、歌舞伎という、一種のオペラのようなもので育成されてきた日本だ。…歌舞伎を基礎として新しく生み出せば、また存外、他国になり、ユニィクなオペラを創造し得ぬこともあるまい。

 

 

 

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