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…そう考えられたので、まず私は、国民歌劇を作り上げることに仕事の重点を置いた。…古典の形式による交響曲を書くのも、交響詩曲を作るのも、それは一切、新しい日本の国民歌劇創造の一過程に過ぎない。」

これは1910年代の耕筰の志を綴った文章だが、この文を基にすれば、耕筰の創作の軌跡は明快に筋立てられる。引用の通り、耕筰の最終目標が国民的オペラの創造にあったとしよう。オペラを書くには管弦楽と声楽の両方に習熟せねばなるまい。そこで1910年代の若き耕筰はまずオーケストラ音楽に打ら込んだ。結果、交響詩『曼陀羅の華』(1913年)等を経て、耕筰か管弦楽の分野での自らの代表作と考えていたらしい交響曲『明治頌歌』が1922年に生まれる。ここで一区切りだ。

そのあとは当然、耕筰は、オペラを制覇するための前提条件となるもうひとつの分野、声楽曲に向かわねばならない。実際、耕筰がその領域に傑作を連発してゆくのは、既に本日の演奏曲目の作曲年代からも確かめた通り、『明治頌歌』を書いた1922年の前後からなのである。そしてその仕事も20年代末で一段落したところで、創作の歩みはオペラヘと集約されてゆく。1930年代の耕筰は、もはや管弦楽でも独唱曲でもなく、歌舞伎とも関連のある日本的題材に基づく国民歌劇としての『あやめ』と『黒船』に全力を傾注する。というわけで、1920年代が歌曲の時代になるのは、耕筰の作曲家としての志からいって、必然の事柄だった。

しかしそのように整理してしまうと、単に耕筰がオペラ作曲の技術習得のためにオーケストラ曲と声楽曲を作っていた如く思われる向きもあるかもしれない。が、無論そんな単純なことでもない。管弦楽でも歌でもオペラでも、作曲には技術だけでなく思想、あるいは理想が伴っているものだし、耕筰にも当然、それはあった。

ならば耕搾の思想的課題とは何だったか?それは結局、西洋と日本をいかに融和させ、新しい日本を作るかということだったろう。そんな問題意識は、もちろん耕筰に限らず、真っ当な明治人にはある程度共通していたといってよい。とにかくそのためのヴィジョンを自分の音楽でどこまで示せるかに耕筰は賭けていた。何しろ彼は、ヨーロッパのオペラの物真似でもなく、かといって歌舞伎そのままでもない、西洋と日本が真に融和した新しい時代のための歌劇を作ろうとした人なのである。そしてそういう意識は、耕筰のオーケストラ音楽や歌曲にも、あたりまえながらずっと反映している。

たとえば耕筰の管弦楽の仕事でのひとつの到達点とすべき『明治頌歌』。それは幕末から明治の日本の音による絵巻物で、日本の伝統と西洋近代の文明の衝突・葛藤の様が、日本的な響きと西洋的な響きの絡み合いによって描かれている。換言すれば歌舞伎的なものとオペラ的なものは融合しうるかが全曲の主題だ。

 

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1931年、ロシア・レニングラードにて。

左端はショスタコーヴッチ。

 

 

 

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