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咸臨丸が木の葉のように暴風にゆられる

 

大いなる事業を成しとげてサンフランシスコの街へ上陸して海舟の眼にうつったものは、初めて見る進んだ国の人々の姿であった。日本のような人切り刀を腰に差した武士だけが大手を振って街を歩き、農工商の人々が小さくなって頭を下げて暮らす上下の差別に多くの人が泣いて生きる姿は全く無く、道行く人々はみんな幸せそうであった。宿舎のインターナショナルホテルは四階建で部屋数は百五十もあり、その部屋ごとに日本では紙入れやたばこ入れにする美しい絨毯(じゅうたん)が敷きつめてあり、その上を靴をはいたまま歩いている。部屋ごとに大きな玻璃(はり)(日本で宝石のガラス)の鏡が有るなどみな珍しい物ばかりで、チョンマゲ姿の日本人は唯々驚くばかりであった。特に後の慶應大学の学長福沢諭吉も麻裏草履で絨毯の床をトントンと叩いていたといわれている。

サンフランシスコ滞在中、海舟は磁石と地図を使って町を出来るだけ多く見学した。川には郵便船(飛脚船)がはしり、瓦斯灯(がすとう)が屋外に沢山立ち並び、病院、貨幣鋳造局、活版印刷所、劇場など見るもの聞くものその大きさに驚かされるばかりであった。特に新聞印刷所では大きな紙の印刷がいっぺんに数百枚もの新聞の刷れる様(さま)に驚異の眼を見張るばかりであった。

このように木村摂津守、勝海舟等一行の咸臨丸はアメリカに於て大歓迎をされ、三月十九日サンフランシスコで礼砲を放ち合った後抜錨して、帰航の途についた。帰りは往航の苦しさに比べたらウソのように平穏で、快調の航海を続け、途中のハワイ島に寄り交歓をし、連日晴天の波を蹴って、五月五日(旧)の端午の節句の日に有史以来最初の日本人による太平洋横断という偉大な事業を成しとげた。

 

●坂本龍馬との出会い

文久二年(一八六二)には海舟は日本の軍艦操練所の頭取を命ぜられ、更に千石取の軍艦奉行にもなっているが、この頃坂本龍馬が海舟の門人になっている。それについて面白いエピソードがある。勝海舟は幕府方の大人物であり、智恵袋でもあったので、尊王攘夷に組する者にとっては目の上のたん瘤(こぶ)であった。そこで或る日、坂本龍馬と北辰一刀流の千葉道場の千葉周作の甥で非常に剣のたつ千葉重太郎の二人は海舟を斬り殺そうと思って海舟の家を訪れた。そして海舟は二人を座敷へ通し、『あんた達は私を斬りに来たのであろう』と言うと二人の殺気が消えた。そこで海舟は『先ず話をしよう。若し話をしてみてもどうしても斬らねばならないことになったらお相手いたそう』二人は言葉を続けて『実はお察しのとおり我々は勝さんを斬りにやって来たのだ。だがその前に勝さんの開国論を聞かせてもらい度い』と申し入れた。

そこで海舟は開国して進歩した外国のことを良く学び、何処の国にも劣らない海軍力が日本には絶対に必要である。海軍力を持たずに攘夷々々と言って今の日本の力で争うことになれば、お隣の清国の二の舞を踏むことになり、まことに危険せんばんなことであると諄諄(じゅんじゅん)と日本の将来を説き聞かせると、二人共すっかり感心して床の上に両手をパタッとついて、『恐れ入りました。全く敬服の極みです。実は私達は軽率にも他人の言うことを信じて横井小楠・勝海舟先生を誤解して、お二人のお生命を頂くべく江戸へ来たものであります。このような立派なお考えの先生を!!…勝先生、このとおりです。どうぞ我々をお許し下さい。そしてそれだけでなく、私達を貴方の門弟にして下さい』と遂に坂本龍馬は勝海舟の弟子になり、日本海軍の開拓者の一人として神戸海軍操練所の設立に協力し、又政治的には薩長連合の労を取り、更に土佐藩公認の海援隊を組織して海舟の教えのままに日本海軍の基礎を造り上げているのである。特にこの海援隊の編成には一切身分の差別はなく、それぞれの力を正しく評価した当時としては驚くべき民主的な組織であったのも、龍馬が海舟の教えを正しく実行にうつした証拠である。

 

●西郷隆盛と勝海舟

そして文久四年九月に西郷隆盛と知り合いになり、籍は勤王党と幕府の軍艦奉行と異なっていても、日本国の将来を見きわめ正しく理解し、愛国の情に燃えて肝胆相照らし、心からの友情を持つ知己としてそれぞれの道に精進する勝と西郷であった。

 

 

 

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