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詩舞のための日本人物史99

文学博士 榊原静山

 

勝海舟(1823〜1899)

 

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(威臨丸で行ったアメリカで撮した若き日の海舟の顔)

 

海舟は文政六年(一八二三)一月三十一日、江戸の本所亀沢町で生まれている。父は禄高僅か四十石取りの下層武士(小普請組)で、勝小吉といい、母はお信と言った。父の小吉は身分の低い旗本であったが自叙伝調の書…“おれほど大馬鹿な者はこの世にはそう大勢居ない。而しいつでも義のために死ぬことの出来る確乎不抜の魂を”と書き出したおもしろい著“夢酔独言”を残している。

海舟は名前は安芳(あわ)、通称は麟太郎(りんたろう)といい海舟というのは号である。

海舟は幼い頃から武術を学び十五、六歳にして直心影流の達人と言われ、島田虎之助から剣を、永井青崖から蘭学を学び、天保十五年(一八四四)には当時の大学者佐久間象山とも知り合い、精神上の感化を受け、明けて弘化二年(一八四五)には深川の芸者砥目民子と結婚をし、翌弘化三年には長女夢子が生まれている。嘉永三年(一八五〇)海舟二十八歳の年には赤坂の田町に蘭学塾を開いている。嘉永五年には長男の小鹿が生まれている。

当時はアメリカ船の浦賀入航以来、天保・弘化・嘉永にかけてフランス船が琉球へ、オランダ船の開国要求、イギリス船の長崎来航、ロシア船の下田来航、嘉永六年には最も幕府が心配したペリーが来航して通商開国を求めるなど、日本国内は開国論議に苦しみぬいていた。海舟は海防の意見書を幕府に提出し、老中阿部正弘や大久保忠寛に認められ、安政二年(一八五五)七月には長崎海軍伝習所で、更に海事の研究を命ぜられ、二年後の安政四年にはこの伝習所の教授になっている。そしてやがて海舟の生涯のうちの最も偉大な業績の一つである、僅か三百トンの蒸気船で太平洋を横断し、日本修好の基礎を築いている。

 

●咸臨丸と海舟

咸臨丸は、オランダ製の木造船で、長さ五〇メートル、幅は七・三メートル、の大きさで力は百馬力の三〇〇トンの小さな船である。この時の咸臨丸の乗員は九十六名で、司令官は幕府軍艦奉行の木村摂津守喜毅、艦長が軍艦操練所教授方頭取の勝麟太郎海舟、又同教授で咸臨丸の運用方と鉄砲方を兼任する佐々倉桐太郎など。この従者の中に明治文化の先覚、慶応義塾の創設者福沢諭吉も加わっていた(このほか米艦フェニモーア・クーパー号の艦長ブルーク以下十人がアメリカヘ帰るために便乗していた)。

当時のオランダ、イギリス、フランス、スペイン、ロシア、アメリカなどの海の先進国と異なって日本の海運力も艦船に関する技術も非常に幼稚であった。そのためにこそ勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など心ある人々は只単に攘夷々々ではなく、攘夷のためには外国を研究し、日本の護りを強固にしなければならない、そのために先進文明を吸収すべきであるという考え方に立っているのである。このような低い知識しか持たない日本人がオランダ製の三百トンばかりの木造船を操って太平洋の荒波を蹴ってアメリカ大陸へ行こうとするのである。実に驚くべき勇気と憂国の情熱には唯々頭がさがる思いである。

咸臨丸は万延元年(一八六〇)の一月十三日に品川を出航し、神奈川県の浦賀へ立ち寄り、一月十九日に浦賀を出発するのであるが、恰度この時海舟は風邪を引いて高熱を出し苦しい出港で、冬型の強い西風が吹き荒れ、来る日も来る日も灰色の曇り空が続き、浦賀から米国のサンフランシスコまでの四五三マイルを三十七日をかけて走破している。全くの晴天であったのは僅かに五日であったといわれ毎日が風雨と荒波との戦であった。便乗しているブルークは人格高潔な士でこの荒天の航海中親身も及ばぬ面倒を見てくれ、又軍艦奉行の木村摂津守も温厚篤実な人であった。

そしていよいよ咸臨丸がサンフランシスコヘ到着したのは二月の二十六日であった。初めて小さな船で日本人が無事太平洋を乗り切って米国へ来たことを、サンフランシスコの人々は大層喜び双手を挙げて迎えてくれたことは言うまでもない。

 

 

 

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