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安政の大獄を起こして吉田松陰をはじめ大勢の勤王の志士を捕えて処刑した井伊直弼も万延元年(一八六〇)三月三日、江戸城の桜田門の雪を血に染めて散ってゆき、慶応三年(一八六七)には大政は奉還され、倒幕の勢は日に日に強くなり、勝海舟の地位は益々上り、海軍奉行と陸軍総裁を兼ね持たされる一方、薩長連合軍は明治元年(戊辰の年=一八六八=)に鳥羽伏見の戦いに勝ち新選組をはじめ京都の幕府軍を徹底的にやっつけ、天皇から錦の御旗を頂戴し、はっきり官軍として西郷隆盛が総参謀になり、有栖川宮熾仁親王を大総督として江戸へ向けて大軍を進めて来た。

海舟は、幕府の将軍徳川慶喜が朝廷に対して恭順の姿勢を守り、自分たちも全く恭順を旨としていることを書いた書簡を山岡鉄舟に託して駿府まで行き、西郷総参謀宛とどけている。

一方三つに分かれて東へ進んでいる東征軍のうち東海道先鋒軍は三月十一日品川に着き、東山道先鋒軍は少し遅れて三月十三日に板橋に着いた。そして来る三月十五日を江戸城総攻撃の日と決定した。一方江戸の有様は憤激のあまり徒党を組んで刀を振りまわす者、疑心暗鬼のあまり付和雷同する者、全く鼎(かなえ)の沸くが如く、たいへんなさわぎであった。

この非常の江戸を何としても救わねばと意を決した海舟は品川田町の薩摩屋敷に西郷隆盛を訪ねた。この時の様子を海舟は後の語録に次のように言っている。

『いよいよ談判になると西郷は、“おれの言うことを信用してくれ!”とその間一点の疑念も挟まなかった。“いろいろむづかしい議論もあろうが、おいどんが一身にかけて御引受けしよう”との西郷のこの一言で江戸百万の生霊もその命と財を保つことが出来、徳川もその滅亡を免れたのである。若しこれが他の人であったら“貴様の言うことは自家撞着だ、言行不一致”だとか“沢山の兇徒があのようこ処々で屯集しており恭順の実は無いではないか”と色々とやかましく責めたてるにちがいない、と言うであろう…万一そうなると談判は忽ち決裂したであろう。然るに西郷隆盛はそんな野暮な人柄ではない。世の大局を達観して果断に富んだ判断を下してくれたすぐれた御人であった』と…。西郷と海舟の二人の偉大な英雄の真の決断により、江戸を救い上げ無血で江戸城を引き渡し、無事東征軍が江戸へ入ることが出来たのである。

 

●彰義隊

ところがこの会見前から旧幕臣の一部の者達が徳川三百年の恩義を主張し上野の山に集結して江戸を護ろうとして寛永寺の輪王寺の宮を“東の天皇”といただいて彰義隊と称していた。

西郷から信頼されて江戸の治安維持をまかされていた海舟は彰義隊をおとなしくさせるために江戸の市中取締りを命令していた。

彼等に恭順の態度で平和裡に江戸を護らせ、公認されているという自信と責任、更に彼等の行動を制約するために是非必要な処置であり、はじめは誠に忠実な彰義隊であった。

ところが旧幕臣や諸藩の脱走兵達が日に日に彰義隊に入会をして来て隊士がどんどん増えて来て、中には西郷や海舟が骨を折り江戸城総攻撃をとりやめてくれた東征軍の好意を無にして官軍の将兵に乱暴をしたり、街頭で大いばりをして市民を苦しめる者も出て来たので、官軍の旗頭大村益次郎は、目にあまって彰義隊から市中取締の任務を解いてしまった。一方彰義隊の者たちはいよいよ強慢な姿勢になり、“輪王寺の宮を守護する、徳川幕府の墳墓を護るのである”と叫び慶應四年五月には旧幕軍の歩兵・砲兵・遊撃隊をはじめ純忠隊、精忠隊、神木隊、萬字隊、臥龍隊、貫義隊などおよそ三千人もの彰義隊が上野の山に集まり、一戦を交えようとの姿勢で立てこもった。折角骨を折った西郷も海舟も、江戸市中で戦って関係のない市民に迷惑をかけてはならない、何とかして彰義隊を解散させねばといろいろと手をつくしたが、彰義隊の者達はあくまで頑強にその勢力を増してゆくばかりであった。

そこで官軍方では大村益次郎を総指揮官として五月十五日を以って上野総攻撃と決定した。

 

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上野黒門の彰義隊の奮戦

 

 

 

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