日本財団 図書館


ジャンピング台やトランポリンも用いました。また子どもによっては「翼をください」「愛しのエリー」といった曲のメロディーを弾かせ私とピアノ連弾を行いました。その場面空間や時間を共有したり、記憶の入カ−再生−消去を円滑に行うことにより、こだわりを軽減し情緒を安定させることができました。教えるということから一緒に音楽を作るようになっていきました。

自分の教育の出発が肢体不自由教育であったせいか、知的障害の養護学校でも身体運動面で考えることが多くありました。知的発達や対人関係、情緒が身体運動と深く関係しているのではないかと思いました。私の音楽療法では、身体運動も大きく取り上げるようにしています。自閉症といわれる子どもを見てみると、肩が上がり胸はひき、踵をつけずに歩いています。「〜君」と名前を呼ばれても肘を胴体につけるようにして手を挙げます。また人が近づくとスッとよけたり、体に触れられるのをとても嫌います。こういうことも楽器演奏や歌唱、あるいは身体運動を通して改善できないかと思いました。集団活動では生活年齢を考慮した選曲を行いながら、どうしても幼児的に接してしまう保護者や周りの教員への、年齢にふさわしい対応方法を意識づけようと考えました。学年の音楽の時間には全員に年1回、一人ずつ皆の前で自分の得意な歌や楽器を演奏させました。重複障害の生徒もできるだけ生徒のよいところを引き出すように心がけました。「あの友達もこんなことができるんだ。」という意識を皆が持つこと、重複障害の子どもにも自分でやらなければならない場面を提供することはとても重要だと考えています。

 

003-1.gif

越谷養護学校での音楽

 

最後の1年間は、以前2年間、養護・訓練で個別指導を行った、高等部の重複障害学級を担任しました。登校から下校までの指導は体力的にも精神的にもきついものがありました。個別セッションでの集中力とまた異なる気持ちの使い方が要求されました。

 

演奏活動を通して

これまで障害児教育と平行して、自分なりの演奏活動を続けてきました。それはジュリエット・アルヴァン女史の「音楽療法をやる人間はプロの音楽家でなければならない。」という言葉に従ったものでした。NHKや日本演奏連盟のオーディションに合格したのは勤め始めて4〜5年目のことでした。東京芸術大学の畑中良輔先生のもとでレッスンを続けました。畑中先生の障害児教育活動へのご理解と励ましがなければとても続けることはできませんでした。教育実践−研究−演奏そのすべてが音楽をしていることであり、それぞれがなくてはならないものでした。平成10年9月に20年間勤めた越谷市でバリトンリサイタルを行い、多くの卒業生や保護者の方々、同僚が聴いて下さり一つの区切りができました。

 

さらなる音楽療法の実践を

まだ自分が実践していない病弱養護学校に勤務できたのは、昨年の4月からでした。現在は寄居養護学校で気管支喘息や起立性調節障害あるいは不登校の子どもたちと音楽を行っています。隣接する県立寄居子ども病院から学校へ通学してきます。まだ1年足らずでわからないことばかりですが、新しい環境に慣れるのには時間を要しました。病弱養護学校では、病気が治れば退院と同時に通常の小学校や中学校に戻って行きます。学期途中の転出入が多くあり、4月当初と3月では学級の顔触れが全く異なることも稀ではありません。また教科指導とともに自立活動や心のケアなど多くの課題をこなさなければなりません。音楽療法の考え方を取り入れながら音楽や自立活動を実践している毎日です。ただ昨今の子供の減少や、通院でも気管支喘息が治療できることなどから、今後の病弱養護学校は病院と連携をとりながら、地域の不登校児を受け入れていく方向にきているのではないかと思います。

研究会でよく音楽教育と音楽療法の違いについて聞かれます。自分の置かれている立場はその答えの最も近いところではないかと思いながら結論の見つけにくい日を送っています。自然の息吹を日ごと感じながら、音楽と山の眺めが疲れた心を癒してくれます。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION