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そうした伝統のなかに、京都の石門心学の講舎が形づくられてゆきます。明倫舎・修正舎・時習舎をはじめとする心学講舎がそれです。幕末から明治維新にかけての時期に、京都は大きな危機を迎えます。慶應四年(一八六八)の九月八日、慶應は明治に改元され、十月十三日には江戸城が皇居となり東京城と改称されます。そして翌年の二月には京都から太政官が東京へ移りました。遷都の詔(みことのり)が発せられないままに、東京が事実上の首都となりました。

延暦十三年(七九四)以来千七十四年の都であった京都は、事実上凋落の道を歩みはじめます。当時の京都の有識者は京都の前途を憂慮して、教育百年の計にとりくみました。全国にさきがけて明治二年に番組小学校六十四校が開設され、ついで女学校(女紅場)・中学校が創立されます。明治八年の柳池幼稚遊戯場は、幼稚園の嚆矢(こうし)です。こうした学校開設の動きのなかで、たびたびの建議をした人物のひとりに西谷淇水(良圃)がいます。彼の学説の流れには心学の影響があり、京都における近代教育のスタートと心学がつながりをもっていたことを軽視するわけにはまいりません。

 

 

 

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