日本財団 図書館


ブレイクタイム

 

055-1.jpg

 

小戸付近には

 

新しい年を迎え、新しく始まりますNHK大河ドラマ「北条時宗」にも関わりのあります元冠防塁遺跡について紹介してみたいと思います。

私は昨年まで福岡市西区小戸(姪浜住宅)に住まいをしていました。この住宅から、裏に出ますとそこは福岡市内では有名な生の松原海岸です。博多湾の西部に当たりますが海岸からは左手に糸島半島、今津湾方面そのずっと先には、糸島富士で有名な可也山が遠望でき、また正面には玄海島、能古の島が、右手の方には小戸ヨットハーバーというすばらしいロケーションの地です。約2キロぐらいにわたって続く砂浜ですが、その一部は自然石を使って整備されていまして、近くの皆さんの散歩コースあるいは格好の釣り場ともなっています。勿論夏ともなれば大勢の海水浴客で賑わう、恵まれた地区です。

また宿舎の近くには壱岐神社があり、神功皇后に関わりのある史跡、そこから生の松原へ出ますと「逆松」という記念碑があります。それには、生の松原という地名の謂われが、「神功皇后が三韓出兵のおり、松の小枝を逆さにさして、戦勝を祈ったところ、不思議にも生き栄えたことから伝えられた。」と記載されています。松の小枝を逆さにするなど、何か意味するものがあるのでしょうか。

この「逆松」の碑から歩いて3分程のところに、今回お話ししたい防塁遺跡があります。

平成12年4月に福岡市により再整備されたものですが、そこには築造当時の防塁の復元とこの地を描いた「蒙古襲来絵詞」が複写された記念碑が設置されました。

 

055-2.gif

 

ここはまさに時宗の時代に起こった蒙古襲来に係わりのある地域の一つです。生の松原地区の防塁は「文永の役」(1274年)後、幕府の指示により肥後国が築造、警備したところです。関連した話として、「蒙古襲来絵詞」(竹崎季長絵詞)があります。これは後の13世紀から14世紀のはじめに描かれたと言われていますが、肥後国のご家人であった竹崎季長が後々の子孫のためにその働きを記録しておくという目的で描かせたものです。それが今となっては当時の戦闘状況をはじめ防塁の仕様といろんなことを描いた最も古い貴重な資料となっています。この記念碑の絵は2度目の襲来である「弘安の役」(1281年)の際に、ここ復元された防塁の前を、従者を従えて馬で東へ進む竹崎の姿を描いてありまして、防塁の上には菊地武房をはじめとした肥後の武将が戦闘態勢で海の方を見つめているそのような光景です。「弘安の役」では朝鮮から一足先に出発した東軍が900艘の軍船と4万人の軍兵の勢力で博多湾を攻めたとありますので、竹崎外の武将が目の前にいるこれらの敵を防塁の前で眺めていたのかと想像しますと大変な決心で臨んだのだろうということが感じられます。

しかし戦闘記録によりますと竹崎は文永の役(1274年)時は、陸上での戦いに参加していて、今の中央区赤坂から早良区祖原付近へ転戦していったとあり、既に元軍は博多に上陸して激しい戦いが始まっていた最中だったとされています。2度目の弘安の役(1281年)では元軍は志賀島には一時上陸し戦ったとのことですが、博多部付近は既に防塁が完成しておりこれを見て、能古の島の東側で後続軍を待っているうちに台風に出会ってほとんど戦わずして引き上げたとなっていますので、実際は目の前に多数の元軍は居なかったことになりますが、記念碑の絵を見る限り武者震いしている様が判るような気がします。当時の戦さは他人より先に戦いを挑む「先懸け」が大変な武勲と評価されていたので味方の到着を待たずに竹崎は大いに戦い、頑張ったと思われますが、2度とも助けをうけて九死に一生を得ております。

それぞれの戦闘のその後は、ご承知のとおりその夜発生した暴風雨で壊滅的な損害を受けて元軍は引き上げた訳ですが、戦力では圧倒していた元軍が引き上げていった裏には本国での事情とか、戦闘体制の複雑さ等外に問題があったのでしょう。

歴史に「もし」ということはありませんが、戦果が逆だったらと考えますと先人の功績の大きさが思い起こされます。また表だった扱われ方はしませんが、博多までの中継地であった壱岐や対馬等では将兵、民衆の区別なく悲惨な犠牲者が出ていることを私たちは忘れてはならないと思います。

私の宿舎の裏に、こんな歴史に関わりのある史跡があったことに何か感じるものがあります。私が特に熊本出身だからでしょうか。

皆さん方も近くを見渡してはいかかですか。

 

九州運輸局福岡陸運支局長

名和俊治

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION