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俳句の魔力

筑網 耕平

 

「現代俳句」について何か書くことになった。カラフルなマリンジャーナルをモノクロの文章で汚してもよいものかどうか戸惑いはあったが、生来の脳天気のため、まあ何とかなるだろう位の気持ちで取り掛かることにした。「現代俳句」、さてどういう切り口にすればよいか。しかし、まてよ、「現代俳句」といっても、「現代俳句」という特別のジャンルがあるわけではない。また、これに対抗する「伝統俳句」という言い方があるが、それもジャンルとしては存在するのではない。あるのは、ただ、「俳句」という魔物のすむ世界である。これについて分かりやすく書こうというのはなかなか骨の折れる作業だなと、今更ながら自らの楽天さ加減を悔やんでいる。

 

さて、「俳句は五七五でできていてその中に季語が入っています。」という理解がある。確かにそれも「俳句」である。しかし、それだけが「俳句」ではない。この理解を盲信して他者に押しつけてくる者がいるが、それは、「鯨ならば哺乳類である」という命題をいつの間にか「哺乳類ならば鯨である」という命題に置き換えて囁いていることにほかならない。

習い事ならばそれでも良いかもしれない。「俳句」の形は少し慣れればたちどころに見えてくるし、そこに言葉をはめることなど実に容易いことである。最初に季語を配し、あとに五七をつければ俳句はできあがりなどという言葉が飛び交うのもあながち誤りとは言えない。一丁、俳句作成ソフトでもつくってみようか、などという話が結構信憑性をもってでてくる。

ふと、「菜の花や」とつぶやく。

かの蕪村は七五に「月は東に日は西に」と置いて見事に一句をものにしたが、実は誰でもそのあとを付けることができる。極端な話をしたほうが分かりやすいと思うので、今手元にあるマリンジャーナル60号の最初のページを使って適当に七五を取り出し付けてみる。「菜の花やあなたの趣味はなんですか」「菜の花や変わった人だと言わんばかり」「菜の花や軽い疲れを覚えるくらい」等々、きりがないが「俳句」というやつが魔力を持っているために容易くこれらも「俳句」の土俵に押し上げられる。

「俳句の魔力」とは、簡単に言ってしまえば定型の魔力であり、言葉というものが有する生理の力である。なんだそれは、という言葉が返ってきそうだが、これは少しでも定型という世界にふれた者でなければ分かりにくいかもしれない。五七五をひとつづつ指を折って作ってみると、思いがけず見知らぬ世界が開けたりする。こちらから作ろうとする意志とは別に、五七五でできた世界がこちらに返してくるものがある。「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉がふいに生き生きとしてくる瞬間に立ち会うことができるという至福、そこに「俳句の魔力」が存在している。私の好きな句に、

 

まなこ荒れ

たらまち

朝の

おわりかな

 

高柳重信

 

という四行書きの俳句がある。(この句は一行で書いてもその魅力は減少しない。)一瞬の朝をこのように捉えた表現はほかにはない。朝というものはほんの一瞬しか存在しないという逆説にも似た認識がこの句の中にある。意識の深いところをまさぐられているような感覚を覚える。これは俳句という最短詩形であるがゆえに書き止められた詩表現である。この句にも俳句という魔物の存在を確かに感じ取ることができる。表現したいと思うものを俳句に書き止めようとする意志だけではこの俳句は到底立ち現れなかったはずである。

「あなたにとって俳旬とは何ですか」「何故俳句をつくるのですか。」という問いかけを、他者から投げかけられることがある。それは、自らも問い続ける言葉である。その答えは流動するものかもしれないが、現在思っているのは、俳句が日常の言葉では現れようのない世界や認識を顕現させるための詩的装置だということである。しかも、それは最小の装置なのである。

現実的には、紙と鉛筆さえあれば、地下鉄の中、散歩の最中、眠りにつく前の朦朧とした頭の中で俳句に関わることが可能である。

 

ところで、俳句には「写生」や「花長諷詠」というとても立派な言葉がある。その道の人はこれそこに俳句の神髄であると説き、そこに日本的な美意識があるとまことしやかに申される。

 

 

 

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