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危うく信じそうになるが本当ならその前に、何故そうなのかという問いかけがあってしかるべきではないだろうか。正岡子規や高浜虚子が大層な人であるのは理解できるが、俳句の現在を見る限り「写生」や「花鳥諷詠」をお題目のように唱えるのはとても変である。俳句は宗教ではないのだから、もっと自由に捉えなおしてみることも必要だと考えている。

なかには、「口語俳句」「自由律」というところへ俳句を引っ張っていく人たちもいる。これは、文語を使用しないとする俳句や五七五にこだわらずに俳句を作ろうとする考え方を反映した言葉である。これはこれでひとつの意味を有するが、ただ、どこへ行こうとひとつだけ外せないことがある。自分がそれを面白いと感じるか、そこに魅力を覚えるか否かである。私はどんな俳句であってもそれを作者が気に入って作っている限りは否定しようとは思わない。それが私の「現代俳句」というスタンスだと自負している。

 

思えば、俳句から私は多くのものを学んできたようである。自分の思いを言葉にすることがいかに難しいかということ。視点をかえれば、どのようなものも全く違った見え方をしてくるということ。見ることは見ないことである、などというような禅問答まがいの認識が深い意味を示唆してくれるということ。等々挙げれば切りがないが、日常の世界とは「切れ」ているはずの俳句が、日常の私にもたらしてくれたものを思うとき、あらためて「俳句の魔力」を感じずにいられない。

 

以下は拙作である。

 

どしゃぶりのなか動かしてみる系統樹

あたたかい紙とおもえば地に吠える

冬帝のゆすられているえもんかけ

ともしびのはびこる走者森をみている

おそるおそるひとに入るは雨の王

包丁の天にものぼるさむさかな

陽炎におおきなあたまをつかわれる

満開のさくらがぼくの荷物なんだよ

大脳をはさんでさくらみぎひだり

一万回の春をむかえるつむじかな

皇帝のあたまひらいて雪ふりしきる

骨も春この身にあそぶあいうえお

あねもねのちちとははとはせんたくを

百才を生みつつ荒れるひなたかな

五十年のいろいろの行列が行く

壮絶に雲が死体を捨てにくる

忽然と崖をひかりに逢わせている

にんげんを揺するとてのひらが墜ちる

老人がぽぽぽぽと行く雨の脚

這ってきて夕日にさわるあなきすと

月夜のこころは等身大の穴である

行く方のひかり暴れるのああるぽあ

睡蓮にもちかけられるひとごろし

だんだん怖い箒をつかう刑期かな

木にくくる花にくくる春の雷

せきれいの足はひぐれといれかわる

雲の骨うっとりと洗濯物おちる

風の底おのおのまわすまなこかな

むしられて空のでてくる子守かな

百年を吐こうとおもう茜雲

あんぶれら夢中にいたる騒ぎかな

音のまま食われてしまうゆりかもめ

冬雁をおしているのは骨だろう

雷の朝とまとけちゃっぷたらんとす

耳がそろったゆうぐれあたたかくなる

にんげんをすぎてかもめをとおる道

一性におわってしまうあんぶれら

人体にであえば月のくもりかな

高熱の木にあおもりが下りてくる

こんぐらがった樹があり失礼している

候鳥の傘をひらいてねむろうか

にんげんをてだまにとればぶどうかな

ともしびを腹に入れると罪である

雷が木にばけるくだりを春の朝

生れた朝のような流木を焼いている

ひらかれてうっとりとなるあおあたま

雪景やまなこにふれるひとばしら

ひまわりに切りおとされた視界かな

舌がでてきてこまんたれぶともうす

雷のうろつくはなしが果てている

食われたる鳩はひぐれかゆうやみか

ふぞろいのあたまがまわる春の月

おんぼろの湖がある食われている

にわとりをさぐり尽くすと傘である

孵化というこわいはなしに雪がふる

木枯に触れるものが触れられている

春耳のいかれてそろそろころりかな

 

ちくあみこうへい

「くらいむ」「不問」「天籟通信」に所属

「くらいむ」http://member.nifty.ne.jp/HAIKU/kuraimu/

俳歴 約25年

趣味 競馬、囲碁、飲酒、夜更かし

九州運輸局佐世保海運支局在職

 

 

 

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