1 海峡の自然条件
関門海峡は、本州(山口県)と九州(福岡県)の間に位置しています。西の響灘と東の周防灘とを結ぶS字型の最狭部幅600mの狭水道です。この地形から非常に複雑な潮汐変化を生じ、潮の満ち干の差は周防灘側が大きく約3.8m、響灘側は約1.5mで、この差が海峡内の高潮流や複雑な潮汐の原因となっています。
この潮位差により、一番狭い早鞆瀬戸地区で最高10ノットを超える潮流が発生します。
潮流の向きは、潮の満ち干が1日2回生じることから1日4回西向きと東向きに方向を変えます。
2 海峡の歴史
関門海峡は、古事記、日本書紀にも神武天皇の東征、神功皇后の三韓征伐などに関連して、古くから交通上の要衝として歴史にその名をとどめています。
神功皇后の三韓征伐にまつわる伝説は、数多くありますが、南北朝時代の応安4年(1371年)今川貞世(了俊)が、九州探題となって太宰府に赴くときの道中を綴った紀行文「道行きぶり」の中に「今の赤間関と門司関との間は、山でつながっており、その下に僅かに穴が通じて潮が流れていた。神功皇后が通過しようとしても、船の通行は困難であったが、一夜のうちに山が引き分れて、今の早靹瀬戸になった。この山は西の海中に寄って島となった。それが引島(彦島)である。」という伝説が載せられています。その他、壇ノ浦での源平合戦、また、文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は肥前名護屋から小倉を経て海路帰阪の際、現在の門司区大里沖において、船頭与次兵衛が針路を誤って御座船を岩礁に座礁させ、危うく命を落としかけました。さらには、宮本武蔵と佐々木小次郎が雌雄を決した巌流島(舟島)の戦いと関門海峡に纏わる歴史は、数多くあります。
なお、秀吉が危うく命を落としかけた岩礁(与次兵衛岩)は、現在の国土交通省九州地方整備局(運輸省第四港湾建設局)の前身である内務省下関土木出張所において、明治43年度から始まった第一期改良工事の中で大正6年度(1917年)までに、除礁工事が竣工し、今ではその姿を見ることはできません。
3 関門航路整備の沿革
関門航路は、この関門海峡を縦貫し、全長約45km、航路幅500m〜2200m、水深は平成10年までにほぼ全域で水深12mを確保しています。また、北部九州や日本海沿岸の主要港湾と、東京湾、大阪湾など瀬戸内海・太平洋沿岸を結ぶ国内幹線航路として、さらに中国・束南アジアさらにはヨーロッパとを結ぶ国際航路の要衝として、島国日本経済を支える重要な役割を果たしています。
近年の航路整備の歴史は明治時代に遡り、明治42年8月に港湾調査会が決定した関門海峡の改良方針に基づき、関門海峡第一期改良工事(明治43年度〜昭和3年度)が着手されています。この改良工事は第二期(昭和4年度〜14年度)、第三期(昭和15年度〜20年度工事打ち切り)と続き、戦後は、昭和24年度から改修工事を再開しました。昭和36年度からは、発足した第一次港湾整備5カ年計画に基づき、整備工事が積極的に実施されてきました。
その後、その重要性から昭和49年7月には港湾法による開発保全航路に指定され、現在は、第9次港湾整備7カ年計画(平成8年度〜14年度)に沿って開発及び保全の整備事業が進められています。