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・中世

12世紀後半、平氏・源氏に代表されるように、武士が台頭しはじめる。武蔵国でも武士団が形成されるようになり、その代表として秩父一族と武蔵七党などの血縁関係の上に成り立つ同族的な中小武士団が連合していた。そして源頼朝により鎌倉に幕府が開かれると、御家人たちが「いざ鎌倉」というときに、鎌倉へ向かうための「鎌倉街道」が整備された。この鎌倉街道には「上道」「中道」「下道」という名称があり、狭山丘陵西端を南北に通過していた鎌倉街道は、鎌倉と北関東、さらに上越地方を結ぶ「上道」であった。

街道には適宜宿や渡しなどが設けられた。僧日蓮が佐渡に流刑される途中立ち寄ったことで知られる東京都東村山市の久米川宿もそうした街道沿いの宿のひとつである。このように街道は地域の発展をもたらした反面、武士団の行き来が多く、しばしば戦場となることがあった。その代表が新田義貞の鎌倉攻めである。西暦1333(元弘3年)5月8日、上野国の生品明神で挙兵した新田義貞は、上道を南下し、所沢市小手指ケ原と東村山市久米川で幕府軍と衝突した。その後、府中市分倍河原の合戦を経て、ついに5月21日に幕府を滅亡させた。この一連の合戦にまつわる遺産は狭山丘陵に数多く残されている。例えば、この合戦で戦死した新田軍の飽間斉藤一族の供養のために造立された「元弘の板碑」が東村山市の徳蔵寺にあり、国の重要文化財指定を受けている。その他、狭山丘陵には白旗塚や将軍塚、兜掛けの松、誓の桜など、この合戦にまつわる史跡が多く残されている。

南北朝時代の狭山丘陵周辺地域は、村山党の山口氏や仙波氏をはじめとした諸氏が支配していた。こうした武士団が築造した館や城が狭山丘陵周辺には残されている。埼玉県所沢市の山口城跡や大堀山、滝の城跡、根古屋城(ねごやしょう)跡、東京都瑞穂町の村山館跡などがある。

その後、室町時代になると、武蔵守護代兼目代を勤めて頭角を表した大石氏が、西暦1356年には武蔵入間・多摩両郡内で13郷を領したといわれる。しかし、その大石氏も、後北条氏が武蔵進出すると、その支配下に入り、三代北条氏康の子氏照を養子に迎えた。氏照は武蔵西南部を支配領域として持つようになった。後北条氏は関東の大半を支配するに至ったが、西国で力をつけて天下統一を進めていた豊臣秀吉に攻め入られ、ついに滅亡した。このように狭山丘陵周辺地域には支配者が目まぐるしく替わり、最終的には徳川家康の関東入国によって平定される。

狭山丘陵周辺地域では中世を示す資料は少なく、発掘調査で明らかにされている中世遺跡は極わずかである。先述の城跡の他に、代表的な遺跡として、埼玉県所沢市の東の上遺跡やお伊勢山遺跡、美園上(みそのうえ)遺跡、野竹遺跡、などが、東京都武蔵村山市の屋敷山遺跡や後ケ谷戸遺跡、東大和市の廻田谷ツ遺跡、東村山市の日向北遺跡や中の割遺跡、徳蔵寺遺跡、下宅部遺跡などが確認されている。この他、中世の信仰を伝える石塔や板碑が狭山丘陵周辺には残されており、また中世に起源がさかのぼれる寺社も散在する。

 

 

 

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